車で1時間少々の場所でちょっとした仕事。いつものごとく短時間でおしまい。絶好のドライブ日和だったのと、午前で用事が終わって時間的に好都合だったので近くの温泉に行くことにした。人が集まる場所が苦手なので温泉は昔は嫌いだったが、誰もいない山の中の露天風呂を経験してから好みが変わってしまった。月曜日のちょうどお昼時ならすいているだろうと期待して少し山手に入る。以前に1回来たことのある、見晴らしがいい中規模の温泉施設で入湯料金500円は、まあ良心的に感じる。期待通り、客は数人に満たない。浴槽が数箇所あるのだから、大浴場も露天も独占で気分がいいのだが、かといって温泉に浸って長時間リラックスできるというタチでもない。自宅の風呂でも読書を兼ねているから長くなるだけで、それなしで長風呂はできない。温泉で読書というのも…でも、次は挑戦してみよう。

農業の盛んな地区で、有名人の農場やレストラン、ワイナリーも近くにあるような豊穣の地。敷地内にはレストランと、地場の農産物を販売する売店がある。そのレストランで食事して、なんとなく売店にも寄ってみた。アスパラ1束80円、青菜類も同じ。玉ねぎ4個100円。その他いろいろ。父親の趣味の農業で野菜はほぼ自給できるとはいえ、こういう所に来ると購入したくなる。アスパラと玉ねぎと人参の会計をしている時に、ふと気が付くと、横にダチョウの卵があった。初めて見た。鶏卵と一緒に並んでいるのだが、長さが15センチくらいあるから、1個だけなのに、やたらに目立つ。で、値段は3000円。その他の販売物に比べたら破格である。レジの人に「どうやって食べるんですか」と聞いたら「どうやって食べるんでしょう。目玉焼きってわけにもいかないよね」と言う。こんなの、いくらオメメぱっちりの人の目玉を想定したところでほど遠いサイズだ。「これ、買う人いるんですか」と聞いたら「前に1人いましたよ。でも、どうやって料理したか知らないね」と言う。生鮮食品を扱っているのだから調理方法も教えて欲しいものだが、こういう場所だったらそれも許せるなというロケーション。ちょっと凝った料理屋でダチョウの肉を勧められて食べたら美味しかったので、この辺で売り出しているのかと思って尋ねたみたが「ダチョウはいるけど肉を売っているかどうか知らないねえ」だった。産み手がいるから卵があるんだろうけど、商売っ気がないというか。
# by kienlen | 2006-05-22 23:16 | その他雑感 | Comments(0)
「あなたにもできるまちづくり」という副題のついたイベントに行った。主催者から電話で勧誘されていて、あまり引きこもっているのもいけないな、娑婆の空気も感じないと、と思って予約していたもの。昨日は一歩も外に出ず、今日もこれがなかったら同じだったろうことを思うと、1時間ほど散歩したという点で意義はあった。でも、参加した後になんだかイラついて友人に電話して、帰りがけにビールを飲んでしまったのでチャラどころか消費エネルギーより過剰摂取かも。別にダイエットしているわけじゃないからいいけど。

まちづくり、をテーマに活動するグループはいくつかある。今日のは、その中の1つの発表を聞いて話そうという趣旨。楽しく気軽に集まってまちづくりについて話したりイベントをする、という団体だったので、楽しいのはおおいに結構ご自由に、という以外の感想はなかったが、面白いなと思ったのは、堅苦しくなくユルク、というのが盛んに強調されていたこと。あと、仲間と一緒で心地よいと。関係者は30代が中心らしいが、すでにそんなに堅苦しい場面に直面しまくってきたのだとしたら、なんだかスゴイなと思った。その上で懲りてユルクだとすれば。どういう仲間を作るのも自由だからそれについて何も思わないけど、ただ、まちづくり、となると行政と結びつきやすいのが少々気になるところ。協働が常識になっているので、その名の下に市民も対等な立場で参画というのが建前だ。ユルクて心地よい仲間達が、もしも必要な時があれば、臨機応変に仲間内、また行政との対立も恐れずに専門知識と行動力と公共性意識を動員して、公的活動の一翼を担うなら、これは素晴らしいことだと希望を感じたイベントだった。
# by kienlen | 2006-05-21 23:02 | 地域 | Comments(0)
朝から1人になった。週末は家族でドライブ、なんて習慣もないし、各人が勝手に自分の行動をとる中にあって、勝手に行動するには小さすぎ、習い事もしていない娘は最も不利な立場になるから、いつも「退屈だよー」と言っているが、少し成長したらしく「毎週おじいちゃんちに行く」と言い出して昨日から行ってしまった。息子は朝から出かけた。昼食に一旦帰宅すると言っていたが突然の豪雨で無理だろう。夫も「オーストラリア行きはのびそう。ビザを取るのに時間がかかっている」と言い残して朝からどこかに出かけた。「タイ人じゃあ、ビザおりないんじゃないの」と言ってみたが相変わらず反応なし。子供が小さくてどっちかが世話をする必要があった時は、その役をどっちにするかで常に調整し合わなければならなかったが、このところ、親としての物理的役割が減っているため夫婦の会話というのは1日皆無か、本日のように1人当り1~2文というところ。何か共通の話題があると会話のきっかけもあるのだろうが、ない。世間を知らないから世間話はないし、興味のありようも多分全然違うようだ。もっとも彼が何に興味をもっているかも知らないが。

これでは「タイ人と暮らすナントカ」とかいっても、それだけの生活実態がないのだから誇大タイトルだ。国際結婚カップル自らの『ダーリンは○○人』というシリーズがあるが、書けるだけのネタを提供してくれる人と暮らしたら面白いだろうと、羨ましく思う。ところで、結婚情報サービス会社が成婚数を偽った誇大広告で排除命令を受けたと報道されていた。法律ではそうかもしれないが、そんなに重要な問題なのだろうか。この業界の広告は文章量が多いので私もたまに全面広告を読む。「苦しみは半分、喜びは倍に」みたいな言葉が踊っている。受ける印象としては、夫婦というのはコミュニケーションを取り合って手に手を取り合って人生を楽しみ、荒波を乗り切る、みたいな感じ。成婚数を大きく言うより、こっちの方が誇大妄想広告で有害じゃないかと思うが、数字以外を測るのも難しいし、結婚してみたら広告と違ったといっても、個人差という壁に仕切られることだろう。それとも実際にこういう夫婦は多いのだろうか。きっと不幸なのはこれを信じて結婚して、さらにその後も大幅調整しないで信じ続けることだろう。私の基準は、ジャマにならない人なので、こういう人が面白いネタを提供してくれるわけない。
# by kienlen | 2006-05-20 15:41 | 男と女 | Comments(0)

本屋に感じる郷愁

某国家機関に仕事で行ったら思いがけず贈り物をもらった。包装紙に包んだ薄い長方形のもの。こういう形状でまず浮かぶのはビール券だが、まさか、この機関でこの方から。無難に商品券だろうか。この間など、仕事のギャラを「金がないから商品券でいいか」と言う個人事業者がいて、小額だし「対価であれば何でもいい」ともらったことがあるが、でも一番嬉しいのは図書券だな、と思って、人がいない部屋に移された時に早速開けてみたら図書カードだった。カード状を見ると500円がまず浮かぶのだが、丸の数が多いので、1000円カードかと喜んだら、さらにもう一桁上。自分の貧しい金銭感覚に気付く。確認してから大切にしまう時、封筒に押された書店のゴム印が目についた。

それはつい最近閉店した老舗書店で、立地ときたら駅前の一等地。しかも、昔、私はここで書店員として働いていたのだ。好きなものが並んでいる場所で働くのは問題があると悟った職場でもある。ツケで社員割引で購入できるので給料日の天引きが異常に多くなる。店員としての役割より、読者に専念したくなってストレスがたまる。自分がいいと思う本があると読んで欲しくなって追加注文して平積みなどすると、通りかかった社長が「本屋の利益は少ないんだから1冊売れ残れば儲けなしだぞ」と怒っていく。実際、人文書がそんなに売れるはずないのだ。それでもまだ余裕のある時代だったのだろう、今から思うと。友達との待ち合わせも、書店だったら長時間待たされてもすっぽかされても平気なのでよく利用した。そうして利用していた店で現存しているのは僅か。その上この規模の店まで…。インターネットで便利に注文できるとはいえ、本屋をブラブラしているだけで、生きて読むべき本があると思って元気がでる。時代遅れの人間なのだ。
# by kienlen | 2006-05-19 20:30 | その他雑感 | Comments(1)
日本に入国する外国人の、一部を除く全員の指紋と顔写真をとることになるのだそうだ。理由はテロの防止。アメリカという前例もあるので可決しやすかったのだろう。これに関してはずっと人権侵害だとか外国人差別だとかの声は上がっているが、私にはすごく単純な疑問がある。私が感じる位だからフツーの人の大方は感じるのじゃないかと思うが、とにかく年間600~700万人の対象者の指紋をいちいち採って写真を撮るって一体どのくらいの手間やら機材などの費用がかかるのかってこと。それをしていない今だって充分行列ができている入管の審査である。機械で正確に指紋を取るのもそう簡単な作業ではない。で、正確でないものを保存したところで無意味どころか有害になる可能性もある。「あの時機械の調子が悪くて正確に採れず照合から漏れました。あってはならないことが起きてしまい深くお詫びします」で頭下げるか土下座して、まさか済ますわけはないと期待したいが。それにテロリスト候補に日本人を含まないという合理的根拠があるんだろうか。本気でテロを起そうとする人が正面玄関から、その国の国籍保持者の協力なしに入ってくるのだと予想できる人々って、まさか法の網をくぐる脱税策なんて考えたこともない遵法精神が大変肥大した人達なんでしょう。

そこまでしてもこれだけの効果があるのだ、という説明を一般のマスコミ情報から私は得ていない。特定産業分野への経済的貢献と入管職員の増強か民間委託による失業対策になるとか、いろいろあるんだろう。高性能機械を導入したところで永遠に使えるわけがないのはもちろんだろうからこういうメリットはありそう。でも出所は税金だから何か削減されそう。それにしても、週に1度は外国に出張というような外国籍の人の指紋や写真はどんどん蓄積されるわけだ。日本観光専門のツアコンの方とかも。ウチの夫も当然対象者。夫婦で貿易業でも始めて一緒に出張なんかしたら、待たせられそうだな。子供は二重国籍者だから17歳になったら対象者になるのか、それとも日本国籍もあれば外れるのか。でも、私がテロリストだったら、そんな面倒な外国人よりは、私のような者に巨額払って何かさせることを考えるな。下流社会人口が増えればリクルートできそうな人も増えるだろうしな。テロリストがどうして生まれているかのメカニズム研究にもっとお金使ってリスクを軽減するってのは、スローで浅はか過ぎる考えなんだろうか。不思議すぎて混乱している。
# by kienlen | 2006-05-19 13:01 | タイ人・外国人 | Comments(0)
岸本葉子『がんから始まる』を読んだ。たまに雑誌のエッセイで見るだけで特に好きというわけではないが、軽く読めるものをと思って買った文庫本。40歳でがんと診断されるところから入院、手術、退院後の生活を綴っている。エッセイストとして充実した日々を送る独身の1人暮らし女性。煙草も酒もやらない。玄米食まで実践していたので当人にとっては思いがけない病だった。生への肯定感と執着はとても強く、自分はここまで前向きになれるだろうかと思いながら読んだ。専門家としての医師との話し合い以外の決断は1人でする。身近な人としては父親が登場するが、拠り所とか相談相手という役割からはほど遠い。「再発リスクを抱えてどう生きる?」が帯の文句。生き方の書に入るのだろうが、がんという具体的な相手があるだけに自分との向き合い方が半端ではない。恋愛感情を抱くと人は詩人になるというが、がんを患っての表現というのは、澄み切った視界の中に潜む言葉を自分の中に強固に定着させているというような印象を受ける。

ここまで気合が入らない書としては、以前に読んだ頼藤和寛『わたし、ガンです。ある精神科医の耐病記』が良かった。これはテーマで選んだわけではなくて、著者が好きだからという理由。子供がまだ小さかった時に偶然図書館で借りた『ホンネの育児論』というのが、まず必ずつまらない育児書としては異質な面白さで笑えて手元に置きたくなって返却後に書店で注文した。耐病記を最後に著者が亡くなった今は入手不可能本となっているようだ。こちらも帯の文句は似ていて「かかったあとの人生」。人生論の一種として読める。ニヒルでユーモアたっぷり。今更恐れるものなしで、業界の事情にも言及。この期に及んで「リアリティだけがもつ露骨さ面白さを求める向きの期待だけは裏切らないだろうと思う」とのサービス精神発揮をまえがきで宣言している。確かに裏切らないが、そういう人にはもっと生きて書いていただきたかった。
# by kienlen | 2006-05-18 20:23 | 読み物類 | Comments(1)
公立小学校で英語教育が行われるというトピックを、昨日のNHKのクローズアップ現代で取り上げていた。偶然テレビがついていたのと、もともとテレビに集中できないタチなのでしっかり見入ったわけではないが、第一印象としては、ここまで大げさに扱う問題なのかってこと。我と汝の関係が曖昧なタイ語の方が日本人には馴染みやすいので採用するとか、お隣なんだから中国語か韓国語の選択学習を決定、というならテレビにかじりついたと思うが、英語?だから?である。でも番組はマジメだった。すでに実践している所では、得意な子もいる反面苦手な子がでて問題、とか。算数だって体育だって何だって得意な子もいれば苦手な子もいる。恥が生まれる前に始めるべき、という意見もあった。今時の学校及びその周辺地域には恥ずかしげもなく様々な母語を使う人達が暮らしているのだから、言語は多様であることを日常の中で体感する方が恥払拭効果としては期待できるような気もする。もっとも国内の外国人人口構成から予想すれば英語以外の可能性の方が高いから、学校教育的には価値ナシか。

全体としては、コミュニケーションの道具としての英語、という側面が強調されていたようだ。道具は使う主体があってこそだから、使い手は自己責任を伴う意見があって、それを伝えたいという意志があって、相手の考えも知りたい理解したいという姿勢で臨むということだろう。まさか、ここでいうコミュニケーションが挨拶だとか世間話であるはずがないと仮定して。となると、どうもイメージしにくいのは、論理や議論よりは情感や和をもって日本人の美徳とするような面々が、地域や家庭や学校現場だけでなく、権力の中枢にもいるらしいこととの整合性。英語では主張を恐れず、日本語では主張は遠慮しろ、では人格障害にならないだろうか。漠としたコミュニケーション云々より、どんどん外資に開放するから企業内言語が英語になる可能性大なので、最低限英語くらいできないと職に就けないぜ、と明言してくれた方がコミュニケーションの種類が特定できてターゲットが定まってやりやすいと思うけど。
# by kienlen | 2006-05-17 20:24 | 言葉 | Comments(0)
ちょっとした仕事の件で、知り合いの20代のグラフィック及びウエブデザイナーであり、農家の跡取り息子として週末は農業修行をしているKさんと打ち合わせした時、ニートの話になった。この流行語を何かのきっかけで出したのは彼の方である。ニートの定義をしながら精緻に話すなんて場では、もちろんなくて極めて雑駁。でもせっかくだから、世間知らずの自分への反省の意味もあって「周囲にニートの人っているの?」と尋ねると「仕事ない人も探しているから…いないですね。でも主婦はニートじゃないんですか?あと、花嫁修業とかいって家にいる女の人は?こういう人って結構多かったんでしょ」。私はニートの研究者じゃないのでこんな難問には答えられないが、しかし私達が世代を超えて一致した意見は「できるなら働きたくないって気持ち、誰にでもあるんじゃないか」ってことと「仕事のことになると男に厳しいよね」ってこと。ニート論議って男女平等な取り扱いなんだろうか。

働くって何だ、ということには興味があるので初期のニート関連の本は少しは読んだことがあるが、まだレッテルを貼ってみました段階でこなれていない感じがしていた。もし自分が該当年齢層だったら「うっとうしいな」と感じそうだ。読んでないので想像だが『ニートって言うな!』という本が出るのも然り。でも実はしばらく前に面白いと思うのを見つけた。雑誌『大航海』のニート特集。好きな仲正昌樹が書いていたので買ってみただけだったが、発見がいろいろあった。中でも小倉紀蔵「全能感・無能感・分能感でニートを解く」という一文。自分は何でもできる、という全能感から、自分は全体の中の一部に過ぎない、という分能感への移行=大人になる、という成長モデルに、特に電子メディアの影響から著しい変化が起きていると著者はみていて、ここを出発点にニートを含めて分析しているもの。特集全体が、労働問題だけで捉えるなという視点のようだが、小倉さんのこれもその一環に位置するようだ。自分のようなものから見ると全能感なんて一体どうやって養われるんだ、と思ってしまうが、それじゃあコイズミ現象にしろネット空間にしろ、世の中が見えないのだということが、これを読んで少し分かった。
# by kienlen | 2006-05-16 12:39 | 読み物類 | Comments(3)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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