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早くも・・・

息子から、単位をひとつ落としたという連絡があった。何か聞いたら「文章表現」だという。その事を娘に話したら「文章表現って何するの」と聞く。それは私も知りたい。文学部でもあるまいに、小説の文章表現ではあるまい。まさかブログ用の文章表現でもあるまい。あるいは短くツイッターでいくか。レポートとか論文の書き方だったら別の講座名になりそうな気がする。当人に聞かないと分からないけど、当人が分かっているのかどうかを確かめるのは怖いような気もする。そういう息子であるからだ。「表現」というからには、表現したい何物かがないとできない。

でも何物かを探すのはもともとそういうことに興味ある子じゃないと難しそうだ。息子がそういうタイプにはとうてい見えない。となると目的をアピールするのはどうだろう。「売るための文章表現」「人を集めるための文章表現」「上手に騙す文章表現」。そうか、こういうことなんだろうか。だったら受講して単位取って欲しかったな。役立つじゃないか。とはいえ、そもそも文章なるものにほとんど全く縁のない人が、文章表現という言葉でおじけずいても不思議ではない。でも、だったらなぜ受講登録をしたのだろうか。謎。それにしても先が思いやられる。笑い事じゃないが笑うしかないや。
by kienlen | 2010-09-30 22:24 | 家族と子供の話題 | Comments(2)
久々に丸ごと1冊読んだ気がする。必要性を少しは感じつつもためらっていた本を一大決心してアマゾンで注文。って、大げさである。そしてこれは思いがけずひじょうに面白い本だった。乱調があってページが乱れていたのがびっくりしたけど。著者は朝日新聞のジャーナリストで忠鉢信一さん。私にとって全くもって未知の分野であるから、ケニア人の足がなぜここまで速いのかについて、世界中の学者が研究していることも初耳だったので、本の最初にケニア人の足の速さに関する学説が紹介され、その反証がありという部分から興味をそそられた。つまり研究者の世界の競走とか研究環境に関する事情とか、スポンサーとの関係とか、そういう部分も面白かった。結局この本は、質問文のようになっているタイトルの答えを提示するものではなくて、一緒に考えるというスタイルを取っているので、その過程が一緒に楽しめるようになっているわけだ。ロードムービーのような感じといったらいいのかな。移動はイギリス、コペンハーゲン、ケニア、東京などにまたがっている。

足の速さを遺伝だとする説があり、そうじゃないとする説もある。そして当事者がどう感じているかもある。ケニアでケニア人ランナーのコーチをしているヨーロッパ人の考えもある。いろいろな人がいろいろな視点から語っている。こういう本を見ると、ジャーナリストの役割というのが重要ではあるなと思う。学者が、自分の論に反対する者の学説について詳しく解説してくれるわけないわけで、またいくらフィールドワークをする学者であったとしても、学術的な研究であってしまうわけで、こういう一般に分かりやすい書にはならないだろう。ケニアの文化が垣間見えるかと思うと、時にはそれが前面に出たり、知らない国なのに、走るというプリミティブなスポーツを通じて感じられるものが多々あった。これは読んでみて良かったな。設問の答えは出ていないが、でも、なるほどと思って読後のもやもや感よりもすっきり感がある。意外な収穫って感じだった。
by kienlen | 2010-09-29 15:18 | 読み物類 | Comments(0)

結構本質的なこと

今朝、枕元の時計を見てびっくりした。8時半近い。信じがたい時間だった。起きるのに遅すぎるというわけじゃない。こういう時間に起きる、もっと遅いはよくある。そうじゃなくて、今朝の予定としてはその時間にはもう家を出ていなければいけなかったのだ。私はひどい夜更かしとか何とか特別な事情がない限り、起きるべき時間に目覚まし時計の助けなしに起きられるタチだ。安心して眠れるように一応目覚ましはかけるが、だいたいその前に起きられる。旅先でも同じだ。毎日の規則正しさよりも、するべきことで動くという習慣の影響かと思う。よって、これをしなくなった時は規則正しさでダメ、中身でダメ、最低最悪な状況になる。それを分かった上での今朝のこの様である。ああ、もうダメなのかな、と思った。しかし、つまり、潜在意識としては行きたくないのである。今朝の仕事先、というよりか、ボランティア。ちゃんとした仕事でこれだったらおしまいだが、今日の場合は、引き受けたからには責任があるが、報酬だけではない何かがあるから受けたのであって、それがないのじゃあ行きたくない。そんな類のものなのである。

やはり仕事にしろボランティアにしろ、何かしらの動機がないとできない。そのやる気のリソースがどこにあるかはいろいろだ。まあ、仕事の場合は報酬の多寡は大きいけど、かといってそれだけともいえない。ただ言えることは嫌な仕事でも報酬が大きければやる気はでるというのはある。少ない場合は、それでもやるかやらないか、という選択になる。そして責任。受けたからにはやらないと。できないなら受けない。で、今回の場合は、受けたからにはやらないと、なんだが、それだけでできるのか、ということである。自分の裁量で決められるわけじゃない。かといって与えられた枠内で最大限をというわけでもない。方針不明、何もかも不明、本当に行く必要があるのか、誰にとってあるのかも不明。管理責任者も今ひとつ不明。こういう世界があるんだなって感動はあるが、今さらそんな世界を知ることに意義を見いだせない。自分にとっての仕事に対する枠が狭かったのだろうかという気もする。そしてこういう世界で仕事している人というのは、私が考えているような仕事だと馴染まないのかもしれない。世の中っていろいろなんだな。結局今日はちょっと遅刻した程度なので行くことはできて、実際行ったのだが、教室の手前で引き返してしまった。どうしても気が進まず。つまり学校だ。明日は行くけど、ううむ、これでいいのか。きっと良くない。何だったらいいのか。分からない。自分で決められないことがもどかしい。無責任でいられて楽ともいえるか。楽だから快適ってもんでもないのが・・・。
by kienlen | 2010-09-28 16:16 | 仕事関係 | Comments(0)
仕事をさぼって外出していたところに電話があって、明日遠出の仕事が割り込むことになった。全く予定外。先方の都合によると、私の帰宅は完全に深夜である。山の中の運転である。熊に襲われてもフリーランスの身では誰にも責任取ってもらえない。ううむ、断るわけにはいかないし、しかし本職への打撃も小さくない。ま、こういう時は考えないことである。明日は明日である。というわけで友人と楽しくおしゃべりランチを夕方までしていた。今日と明日の補填のためにいくらかでも進めないといけない、と思いながら庭を眺めていた。いい感じになっている。なかなか増えないと思っていたニラが増え、何度植えても根付かないと思っていたフキも出て、なんで毎年枯れるのかと思っていたシソも枯れなくなってきた。一見、消滅したように見えた植物が実は生きていて忘れた頃に芽を出す。動物ではあり得ないことだ。植物が好きだ。ただちょっとどうしようかと困っているのがザクロ。食べては実を庭に捨てていたら、あっちにもこっちにも芽を出して、中にはもう数十センチになったのまである。しげしげと見ると、小さいのがかなりたくさん出ている。

適性のある植物はこうして強く生きるのだと思うと、自分も生きていける気になる。でも、適性問題はよく分からない。誰かザクロの木が欲しい人がいたら差し上げたい。もともとは結構なお値段で購入したものだが、植木屋って儲かるよな。友達に植木屋がいて儲かっていたのを思い出した。こうして増やして売るわけだ。そんなこんなで庭を眺めていたら電話があった。明日の仕事の場所が変更になって、すぐ近くになった。嬉しい。この程度の距離なら何時になっても構いませんよ、って場所だ。ほっとした。些細なこととはいえ、こういう時は神様に感謝したくなる。見えない所に何かがあるという感覚は私にはぬぐえない。今日も友人と「選択」について話していたのだが、よって私はあまり自分の選択というものを信じていない。これはある意味の逃げでもあるが、選んだのか選ばされているのか区別つかないし、結局なんとなくそうなっている感が強い。もっともこういうことは自分の意識の問題のようにも感じるので、どう意識するかだけなのかもしれない。ただ庭の植物を見てもやっぱり不思議だなと思う。科学を知らないからともいえるが。
by kienlen | 2010-09-27 18:41 | 仕事関係 | Comments(0)

とうとう出家するらしい

店の定休日の日曜日。娘は文化祭で登校。夫は出たり入ったりで夕方戻ってきた。また出かけるのかと思っていたら出かけないという。夕食を家で食べるか聞いたらラーメン食べたいという。それじゃあ、ということで出かけた。どうせなら少し足を伸ばして美味しいと評判の店に行きたかったが、夜はイナゴ捕りに行くから近くで済ませたいという。それじゃあと、近間の初めての店にした。夫が息子の様子を尋ねるから「お金足りなくて頭痛い」と答えた。特に反応なし。それから「1月に1週間店を休む」という。どうしたのかと思ったら「出家する」という。「出家する」というタイ語と「飽きた」という語が、似ているというほどじゃないが、最初の音が似ているのと、出家は予想していなかったので「飽きた」と言ったのかと思ってぎょっとした。出家と聞いて、やはりタイ人だと思った。当たり前だが。それに日本にいるから日本的になったと思うことも、これっぽっちもない。

「私も出家を見に行きたい」と言うと「行けば」と言う。娘も息子も行けばいいと言う。息子に行くか電話しろという。行くわけない、と私は思うからそう言った。答えが明白なのに電話するのも嫌だ。変なこと言うなという様子の不機嫌な声を聞くのも嫌だ。「出家するには儀式があって、お経を覚えてないとダメなんでしょ」と言うと「忘れてないから大丈夫」と言う。娘はこのやり取りを聞いていたと思ったら漫画を読んでいて無関心だった。あるいは言葉を理解してないかもしれない。出家なんて単語知らないかも。タイにいたら必須単語に入るが。店を出てから娘に「パパが出家するから1月にタイに行く?」と聞くと「その時期は忙しいから行かない」と言う。そうか受験の時期だ。一応意識しているということらしい。行きたければいけばあ、というが、ひとり残すわけにもいかないしな。出家は折に触れて言っていたものを、そういえば最近言わなくなったところだったから、とうとう決心したということだろう。通常タイの男性の場合、結婚前に出家することになっているようだ。そうじゃないと一人前になったことにならないようだ。1週間で即席一人前になるんだから便利といえば便利だな。出家の儀式は見てみたい気もする。夫は娘に「勉強用具持って行けばいい」と言っている。説得にのるかどうか。
by kienlen | 2010-09-26 22:06 | タイの事と料理 | Comments(4)

つらつらつら

どっか行きたい、と思っていた翌朝のメールチェックでアメリカ在住の友人からのメールを見つけた。ワシントンDCに住んでいる。子どもらは元気か、夫の店はどうか、いつ遊びに来るんだ、返事をよこせ、という内容だった。息子から金よこせメールが来るよりもよほどよほどよほどマシマシである。全く逃げ出したいもんである。この状況から。4年間の辛抱だ。持ちこたえられる可能性は五分五分か、そこまでいくか。いかないか。それよりもどっかに行くことを考えよう。今朝は、消息不明の元友人から電話があった夢の記憶があるまま起きた。時々気になっているせいだと思う。一体どうしているんだろう、生きているのか、あるいは。心の病を煩っていた人だ。あれでもうちょっとああだったら、お友だちでいられたのになあ。残念だ。頭が良くて率直で、コミュニケーションが成り立っている感はあったんだから。遠くに行かなければ今ごろ無事だったかもしれないのに、などとやけに考えてしまった夢だった。

秋晴れに終日在宅仕事をしている自分も病気っぽくなるように思う。それに日曜日に電話してくるのって息子くらいだし。息子が電話してくる時の用事にろくなものはないし。でもなあ、この頃もいろいろと出会うことになってしまう親子を見ていると、考え込んでしまう。深刻なのがあり過ぎで、息子のこの程度でどうのこうの言っている場合じゃない。4年の義務が終わったら私はもっと社会的な動物に変身して、あれもするんだ、これもするんだ。そんな決意も遠のく秋空の高さかな。読めないのに注文してしまったアマゾンから本が届いた。娘の文化祭、最後なのに見に行けなかった。運動会の競技がいろいろあって面白そうだったのに。息子の学費の払い込みだ、車検もある、免許書き換えもある、タイヤも新しくしないと。安定したい。どうしてこうなったのかなあ、いつのまにかだなあ。もう決して望めないことを考えてもしょうがない。それよりも、もう一踏ん張りがんばろう。
by kienlen | 2010-09-26 16:55 | その他雑感 | Comments(0)

どこかに行きたい

友達がイギリスを旅行中。別の友人はドイツに行くそうだ。どこかに行きたい。ヨーロッパだと高いので、来年はインドシナを歩くことにしよう。1か月くらい旅をしていたいものだが、まあ、2週間くらいで我慢しようかな。まずバンコクに行き、それからカンボジアに陸路で行きたい。それからラオス、逆でもいいか。でもラオスは何度も行っているからベトナムかなあ。そんなに行きたいわけじゃないけど、結局それで今まで行かずじまいになっている。タイにいた時に行っていれば近かったのに。しかし、韓国も中国も行ったことないから、こっちが先だろうか。しかし、2週間アジアを歩くよりもツアーでヨーロッパに短期間行く方がいいかな。全く行ったことないから。英語圏にも行ったことないな。アメリカかな、やっぱり、1度は。オーストラリアの方が近いし楽そうな気もするなあ。それよりトルコとかドバイとか、行ってみたいじゃないか。という希望を描くのは自由だ。来年と言わず、年内だって不可能じゃないか。

今日は少し疲れ気味。そんなに遠いわけじゃないが、それでも近くない所へ行った。仕事というよりはボランティア。ボランティアなのに疲れる内容。しかも長時間になった。携帯の着信を見ると夫から。折り返すと娘が出た。「店にいるから迎えに来て」と言う。こんなに遅くなると思わなかったから夕食の用意をせずに出てきたし、夫に伝言している時間もなかったので、店で食べていてくれれば助かる。もう少し近くなら毎日そうしたいところだ。ラッシュ時にかかって道は混んでいるに違いない。2時間以上もかかって帰り着いた。空腹だ。ご飯の炊けるのを待つ気力がない。しかし本日は麺類よりご飯の気分。夫に「店のご飯を少し分けてくれ」と電話すると「食べていけばいい」と言う。それもそうだなと思って店に寄ると友達がいた。安いラーメンのフランチャイズの店では外国人を使っていて、彼らが外国語で会話していると悪口を言われているようで不快だというクレームの電話がくるとかいう噂をしている。「じゃあ、この店なんてどうなんのよね」と言っている。タイ人同士がタイ語だから。今日もそうだった。寝て読みかけの本をゆっくりと読みたい。このところ本も読めないじゃないか。
by kienlen | 2010-09-24 22:23 | その他雑感 | Comments(2)

切羽詰まって八つ当たり

どうもよく分からない。ここ何年かの「ワークライフバランス」というのがあるし、その前は「家庭と仕事の両立」などとも言われていた。家庭と仕事っていうと、まだまだ女の領分って感じがあり、それじゃあいかんという姿勢を示さないと国際的に恥ずかしいので、男にも広げたのがワークライフバランスとかいう言い方のように感じられる。人によって違うなって感じる点に、まずは形式を整えないと中身がついてこないと考える人と、形式よりも中身であると考える人の違いがある。皆が皆そうそう極端でもあるまいが、二分類すればだ。私のようにキチンとしてない者は、形式だけ示されることが苦手なのである。アテもなく枠もなく、どこに何があるか知らないけど、まあとりあえず歩いてみますか、やってみますかのタイプなんだろう。そういう荒野しか見えない者に、はいこれ、と何か渡されても、ここじゃあ使えないし・・・みたいになってしまう。さすがにこの歳になってそんなバカを言っているのがバカなのは自覚するからまあ例えではあるが。つまりどうも、形式整えることで充実感を得るなんてことはないだろうと思われる。だから法律を作るとか、決まり事を決めるとか、規律を作るとか、できない。ああ、こうして並べると、といっても同じ事の羅列か、教育もできないし、親も務まらないじゃないか。目をそむけることにしよう。

なんてことを考えていたのではなくて、家庭と仕事の両立である。これはどういう意味だろうか。仕事の真っ最中に「家庭がありますから」と引き揚げるわけにはいくまい。家庭の真っ最中に仕事があるからと出て行くことは、どうだろうか。前者をやっていかれる人というのは、相当に恵まれた状況で仕事ができるということだろう。代替要員がいるとか、下請けにツケを回すとか、迷惑かけても他で補えるくらいの特別な魅力を備えているとか。後者は、しなければならないわけだ。ここで家庭が崩壊する場合もあるわけだが、じゃあどっちを取るかだ。家庭があることで飯が食えれば家庭を取ればいいし、家庭があっても飯食えなければそっちを取りようがないように思うが、どうなんだろう。家庭というからには子どもがいるのがここでは前提ということにしておく。夫婦とペットの場合は、ちょっと私には分からない。学校に行く機会が多いが「お母さんが夜いないから」という言い方には、どこか、それが子どもにとっていかんという意味合いが貼り付いているように感じる。夜の外仕事をするには在宅できないのである。だからどうしたらいいんだろうか。つまりワークライフバランスとかいう所に税金使うのと、そういう困った状況をどうするかの順位なんだけど、私だったらこっちにしたい。男の育休取得推進なんかも不思議である。天空の世界で見本を示せば下界もそうなるという発想があるんだろうな。庶民はお上の習慣を取り入れるという傾向はどこでもあるから、その延長か。ソレとコレ、違うと思うけど。
by kienlen | 2010-09-23 12:38 | 仕事関係 | Comments(0)
相変わらず飛び飛び日記と化してしまった。今日は中学校でフィリピンの子と話す時間があったので、前々からの疑問をぶつけてみた。彼女は中学3年で来日から半年くらいになるんだろうか。日本語はまだまだだが、それでも積極的で明るい性格のせいもあってコミュニケーションはかなりいける。困ると英語の単語を混ぜるとさらにいける。この点が英語を話す国の明かに有利なところ。世界に羽ばたくフィリピン、さすが。それに、異文化に入る場合には、人なつこくて明るいって利点だよな、と子ども達を見ていると感じる。やはり話しやすいのでつい話しかけてしまうのである。冗談も言えるし。もうひとり韓国の子が同学年にいるのだが、南国のタイやフィリピンのような無邪気さとはひと味違う感じで、話しかけにくい雰囲気がある。まあ、私が南国スタイルに慣れているからかもしれない。そしてタイ人がどうしても遠慮がちなのに対してフィリピンの子は積極的でもある。やはり、さすが国際人って感じがするな。ただ、私なんかよりいろいろな国のたくさんの子を見ている日本語教師の先生によると「でもがさつなのよねえ」ということになる。料理をやらしても手芸も丁寧さに欠けるそうだ。となると、私なんか図にのって「アメリカの影響でがさつになったんじゃない」なんて言いたくなる。これこそ、がさつな物言いでありますが。

積年の疑問とは、フィリピンは教育を英語で行うということだが、となるとタガログ語と英語をどのようなバランスでやっているんだろうか、ということである。それに母語がタガログだったら友達とはタガログだろうし、先生はどうなんだ。とまあ、そういう疑問。彼女は私立のクリスチャンスクールで公立よりも厳しかったそうだ。英語の時間は英語以外を使ってはいけない。社会も英語。これは「難しくて意味の分からない言葉がたくさんあった」そうだ。でも面白かったそうだ。科学や数学は?と聞くと「タガログと英語のミックス」だそうだ。バイリンガル批判者が、両方取り混ぜて考えるから深い思考ができない、と言うのを聞いたことがある。想像はできるが経験がないので分からないが、あてはまりそうでもある。ただ、結局仕事をするようになると必要な語彙というか思考は高めるしかないから、基礎があればそれからで遅くないんじゃないだろうか、と思ったりはする。何しろ言葉をすべて知るのはあり得ない。それにそもそも深い思考って何よ、である。そんなのない方が生きるのには便利かもしれない。学校で英語だとタガログは弱くならないか尋ねたら、もちろんそうで、難しい言葉は分からない、と言う。ここで「そんなことない」と言われたらびっくりだったけど、なんか安心というか、言葉ってそういうことだよな、という感じがした。しかし、それでもタガログが生き残っているのはどういうことなのかな。というか、多分相当に言語としての影響力はなくなるんだろうなあ。残念だなあ。知らない言葉だけど。しかし現実的に英語が話せるのがものすごく有利であることは間違いない。フィリピンから来たばかりの子が英語100点取ったそうで、タイ人じゃあこれ無理だものな。
by kienlen | 2010-09-22 18:12 | 言葉 | Comments(4)

楽しみなイナゴ

f0104169_10524222.jpg今、そしてこれからしばらくは在宅中心の生活になる予定。それなのに本も読めそうにない。よって話題がない。よって外からの持ち込みを待つしかない。今朝の持ち込みはこれだった。イナゴ。昨日、店の定休日だった夫はイナゴの捕獲に出かけた。お父さんはイナゴ捕りに、お母さんはお家で仕事。娘の視点を説明すると、そういうことになると思う。そしてお母さんの仕事なんかどうでもいいのだが、イナゴは食べたいのである。「たくさん捕ってきてよね」と言うきり、自分も一緒に行こうとはしないのが、小さい時とは違う。確かに前回はそれほどの収穫がなく、娘が分けてもらえたのは数匹で不満そうだった。今回は、結構騒がしいほどの数がペットボトルの中で跳ねている。空気穴を開けて放置して糞を出させてから揚げる。今はこれを店でやっているが、店を始める前は家でやっていたし、もっと大量に捕ってきたし、手違いでその大量のイナゴを家の中に放してしまったこともあった。

家の中で跳ねるイナゴを捕まえるのは田んぼで捕まえるよりもやっかいである。どこに行くか行動パターンをつかめないのだから。印象に残っているのは、娘が素早く捕らえていたことと、その時に遊びに来ていた友人が悲鳴を上げたことだ。ペットボトルには紐がついている。これを身体に結びつけて捕獲するんだろう。タイでどうやっていたかは知らないが進歩しているというか、なお原始的というか。こういう事をしていると、イナゴのいる田んぼが減少していることが分かるらしい。家の近所にも田んぼがあるがイナゴなど見たことがない。あそこにいたらいいのにねえ、と娘を話していた。日本人はコオロギやバッタは食べないように思うが、そういう区別はないようで(ああ、名前はタイ語でも違いますが)コオロギもバッタも捕まえて一緒に揚げる。揚げてしまえば正体不明ということは決してなくて、やっぱりイナゴよりバッタの方が大きいし、コオロギは色が一層黒い。イナゴを揚げるとエビの唐揚げと同じか、もうちょっとコクがあって実に美味しい。ビールのつまみに最高。娘から「パパ、お願い」と言う方が効果が大きいので、私は欲しがらなくても大丈夫だ。
by kienlen | 2010-09-20 11:14 | タイの事と料理 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


by kienlen
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