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「させる」と「してもらう」について考える

乗り物の上で過ごす時間が長い。今日は自転車に約1時間半、電車に2時間弱。じっと座っているよりは健康的であるが、気付くと遅い時間になっている。明日は事前準備必須の仕事があるのでこれから取り掛かる。うう、眠くなっている…。ガソリン代はますます高騰なので明日も電車にしよう。遠方ばかりなので生産性は極めて低く経費ばかりかかるが、移動は多分精神衛生上はよろしいような気がする。毎日ちょっとした小旅行気分だ。でもここ2日程はタイ語の勉強に割と長時間を割いていたので、頭の中にタイ語の文字が舞っている。特に気になっているのがให้=ハイというシロモノだ。動詞として使う時は「あげる」という意味があるが、多彩に活躍する語で使役の役割も果たす。つまり「ナニガシにナニナニさせる」という場合にให้・ナニガシ・ナニナニという並びになるわけだ。日本語は単語の間に助詞というやっかいなものが入るけど、タイ語はそういう面倒なものは少ない代わりに語順で融通はきかない。

タイ語と日本語に共通する点といえば目上と目下という人間関係があって、それが言語表現上に強い影響を及ぼすということで、もっと中立的な言葉の方がいいなあと思ったりもするのだが、このให้の感覚は味わい深いように感じる。「ナニナニさせる」と言うと日本語的には目上の人が目下に向かってやらせるものであって、ウチワ意識から外部に向かって言う以外の一般会話で「社長に電話させました」はしっくりこない。なんでかな、って考えたら、日本語というのは、「してもらう」「していただく」「お願いする」という、自分が一歩引いた上で自分から相手に向かう方向性が自然であるようだ。でもタイ語だと「させる」がニュートラルな言葉として作用して、ナニガシが上司だろうが社会的地位の高い人だろうが、ハイ(日本風に言えば「させる」)でいい。すると、逆に困るのが「お願いします」的な表現。これはタイ語に馴染まないようで、在日タイ人達は日本語の「お願い」を便利な言葉としてそのまんま多用している。「お願いเขา=カオ(あの人)」ってタイ人が言えば「あの人に頼む」という意味。外国人が増えると新しい言葉も増えるというか外国語が乱れるというか。外国の言葉を知るって思考の流れの違いを感じることでもあり、本当に楽しいことだ。
by kienlen | 2007-10-31 23:48 | 言葉 | Comments(0)

言語能力チェック欄の謎

今日は雑用をいろいろ片付けないとならない。友達がさおり織りの作品展を開催するので、各マスコミ、ミニコミの情報欄掲載を依頼する。それから銀行口座をチェックして振込みのないことを確認した時点で、毎度毎度ギャラの振込みが遅れる会社に催促の電話をする。私みたいにあんまり催促しない者は毎度毎度後回しになっているらしいが、ここまで収入低迷が著しいとそうそう呑気になっていられない。それから出身校に卒業証明書の発行を依頼する。人材募集に1件応募してみることにした。年齢制限がないからって理由は消極的に過ぎるか。今時の標準なんだろうか、ネットでエントリーしないと応募できないしくみになっていて、この第一段階を踏んで初めて応募書類を送付できるというわけだ。エントリーシートだけでハネられるのであれば卒業証明書は無駄になる、どうしよう…。世の中の移り変わりについていけない。それにしてもエントリーシートに記入できる欄がほとんどない、ということは、ほとんど無理ということだ。それといつも困るのが語学力の自己申告欄。

今回の選択肢は「日常会話レベル」「ビジネスレベル」「ネイティブレベル」の3段階。日常会話レベルはよく使われるし私だって「まあ、日常会話は特に不自由しませんが」などと言ってしまうこともあるが本当のところよく分かってない。やはりこういうのもちゃんとこの分野の勉強をしている人にとっては言葉の定義として常識なんだろうか。本のタイトルにも日常会話○○語とかよくあるもんなあ。どっか行くとか何か食べるとか程度を日常会話とするか、日常的に政治論議をしている人の日常会話って政治用語バリバリだったりするんだろうかとか、まあここまでいかなくてもスラング頻出会話を日常会話としたら、この分野を知らない私なんかもうダメ。この間も若い子にタイの若者言葉を試されて分からなくて笑われた。さらに分からないのがビジネスレベルだ。営業の使う言葉と技術者の使う言葉は違うだろうし、法律家と流通業の人のビジネス用語も違うんだろう。ビジネス用語は詳しくてもフツウの日常会話はできないって、ネイティブ言語でもありそうな気もするし。なんて考えているとキリがなくて雑用を消化できなくなる。
by kienlen | 2007-10-30 10:44 | 言葉 | Comments(0)

戦後短篇小説再発見⑰『組織と個人』

上京した時に当地方都市にはない大型書店で平積みになっていたから新しいものかと思ったらそうでもなくて2003年発行。文庫本だから定価も見ないで買ったら、厚くもないのに税別で950円もしていた。見ていたらためらっていたかも。収入低迷の割には図書費に割く金額は低迷していない。このような本は図書館利用で充分なのだろうが、こういう本を刊行して下さる心意気を支持したい、それで買う、と友達に勝手に宣言したら「図書館だって買うんだからリクエストすればいいんだよ」と冷たく言われた。このまま低迷だとそれを考えることにしよう。さて、この本に目がいったのは単純にタイトルに惹かれたからだ。組織と個人…、人類普遍のテーマではないだろうか。少なくとも人類の片隅に生息する私にとっては重要である。ちょっと開いたら、私の好きな梶山季之の短篇も掲載されている。それで決断、ほぼ即決。講談社文芸文庫の「青春の光と影」「性の根源へ」「さまざまな恋愛」という具合にテーマ設定して短篇を編んでいるシリーズの中の1冊だが、一覧を見渡す限り、これが最も興味あるテーマである。

10人の短篇が並んでいる。昔いくらか読んだことのある人が4人、名前は知っているが読んでないのが3人、知らない人が3人という内訳。戦前・戦中を舞台にしたものでは、組織というもののある側面を見るのに究極のサンプルとなる軍の存在が直接的であれ間接的であれ大きい。一番印象に残った梶山季之「旅譜」は、朝鮮人の創氏改名を現場で進める役割を負わせられた下っ端職員が主人公だ。苗字が途切れてはご先祖様に申し訳ないと応じてくれない相手は、日本への貢献という点でも申し分ない優良朝鮮人。彼の言い分はもっともであるから、そもそも徴兵逃れで公務員になっているような主人公はそっちに共感するのだが、上司も上層部も、はいそうですか、で許すわけがなくて、かといって真摯にストレートな説得を試みるなんて無芸もするわけがなくて、まさにホラーの世界である。真に恐ろしいのはオバケではなくてこっちなのだ。可愛げもなければ、そもそも正体不明なんだから闘いようもない。吐気がするほど胸が痛くなった。梶山季之って大衆小説しか知らなかったが、こういうのも書いていたんだ。戦後が舞台となる作品は組合とか企業に移る。短篇はこういう形でテーマで選んでもらうとありがたい。選ぶ方は大変だろうけど。
by kienlen | 2007-10-29 10:11 | 読み物類 | Comments(2)

なんとなく過ぎた日曜日

雨上がりの秋晴れの素晴らしい日だった。娘はいないし、息子はもう大きいし、ちょっとの仕事で出るついでがあるから夫を乗せていって、1度どうしても行ってみたいと思っている温泉に行く予定にしていた。珍しく夫が同行することになっていたので。ところが昨夜になって「やっぱり行かない」と言うので流れてしまった。つまり1人で行くにはちょっと怖いのである。ま、そうそう自分の都合よくいかないのは分かっている。ここまで自分勝手に思考行動していて相手が思い通りに動くとまで思ったらもう正常の域を超えるに違いない。夫が私と出かけて楽しいはずはないのである。共通の話題も趣味も何もないんだし。私にしたら男性がいるのは用心棒になるが、男性からみて私は何の役にも立たない。というわけで、1人で運転して報酬の割にはものすごく遠い場所まで行き、終わったらすぐ戻った。今日からタイ語の勉強を始めるのでフラフラ遊んでいる余裕はないのである。

確か新年の決意にタイ語の勉強を挙げたはずだが、いつのまにか遠ざかっていた。新聞を毎日読むはずだったのにやってない。しかし言い訳じゃなくて時間がないんだ。時間が欲しい。あるいは同じことをするのに今の半分で済ますことのできる能力。どっちかひとつでいいのにどっちもない。そしてあと2か月で今年も終わるんだ。それでも久々に自宅で夕食が取れる日だったのと、寒くもなく暑くもない外気に触れたくてウサギのエサ用の草摘みと、ぎょうざの皮の買い物に出て、久しぶりにぎょうざを作った。そのため、もう枯れ尽きる時期が近いのか、ますますやせ細っている庭のニラを摘んだが、あまりの細さに量不足。売っているニラはやけに太くて、細いのしか知らない自分にはちょっと怖いくらいだが、品種改良して太くしたくなる気持ちはよく分かる、と細々と摘みながら思った。ニラだけでは足りないのでネギと人参を入れた。食事の後、夫が子どもらを連れて服を買いに行った。その時に父子が並んだ。そういう姿を目撃する機会はあんまりないから、今日初めて、息子の身長が父親を完全に超えたのを知った。役割を終えたようにも感じるし、まだこれからだって気もする。疲れたような、まだまだやり足りないことだらけのような、季節も中間だし気持ちも半端だな。
by kienlen | 2007-10-28 21:43 | 家族と子供の話題 | Comments(2)

日常の中に中東を掘り起こす

昨夜から激しい雨が続いていた。昨日はどんよりした気分だったが、今朝は弁当作りがないため目覚ましをかけずに自然に起きるまで寝ていたらすっきりした。すっきりしていなければ、特に義務も義理もない午後からの「日本中東学会第13回公開講演会」は行かなかったかもしれないが、雨の中を散歩がてら出かけた。ゆっくりと1時間弱歩いて会場に到着。人は少ない。1時半から6時までという長丁場で、つまんなかったら途中で帰るつもりで、その際は喫茶店で読もうと思っていた本も何冊か持参したが、とんでもない、大変面白く最後まで聞いた。しかも7時まで延長になった分まで。講演2題はそれぞれ毛色の異なる「駱駝と日本人」「新しい世界史へ」というもの。コーヒーブレイクを挟んでパネルディスカッションは基調講演+パネリスト報告+総合討論というプログラムだった。何が面白かったかというと、学問としての歴史学や学校の教科としての世界史というものが置かれている状況が素人にもかなり分かるような構成になっていたこと。中東学会所属の研究者だけじゃなくて、中学校と高校で世界史を教えてきた教師3人の発表もあって、それも興味深いものだった。

歴史という科目は、イデオロギーが直に反映するし、国によって内容が異なるであろうこと程度は分かるが、1955年に初めて日本に「世界史」という科目が登場したことも知らなかったし、内容がどう移り変わってきたか、昨年問題になった世界史未履修問題の背景に何があるのか等、知らないことだらけだった。というような、いわば実務レベルのような話しから、そもそも歴史とは何か、とか、普通に使われている「イスラム世界」とは何か、などなど、本質的な問題まで幅広い問題提起があって、フムフムと聞き入ってしまった。例えば東南アジアの歴史を学びたいなと思っても大学の講座でアジアの歴史=中国史だったりする理由が今日分かった。すっかり流布している「イスラム世界」といえば実体があるかのようであるが、何を差してそう言うのかは不明であるという話しもごもっとも。私達が摂取する情報はジャーナリズム経由なのだが、その情報がアカデミズムの世界での常識とかけ離れている場合が多いことは、特に「イスラム世界」においては顕著なようでもある。次にこういう機会があったら、そのへんのギャップを具体的に知りたいと思ってアンケート用紙にリクエストした。珍しく満足感のあった公開講座だった。
by kienlen | 2007-10-27 23:12 | 社会的話題 | Comments(0)

久々に日記らしい日記

飲んでいたら日付が変わってしまったから、自分的には本日だが、時間的には昨日。午前中は娘の学校の音楽会を見学。最後なので例年になく長時間、2時間ほど楽しく拝聴した。そのままちょっとした仕事の現場まで運転。電車にしたかったが雨になりそうで、現場が駅から徒歩30分はみないとならない所なので車にする。で、すごい雨になったので選択は正解だったが、恐ろしい睡魔に襲われて、これじゃあ運転はマズイとつくずく思った。帰宅して一眠りしようと思ったら、そういう時に限って電話が何本もある。娘は祖父母宅に行き、息子は部活で帰宅が遅いから、昨日友人からもらったイタリアのビールを冷凍庫に入れて夕食時に飲む準備をして一休み。すると予想より早めに息子は帰宅。自分も空腹だったので夕食準備を始めたら「自分で作るからいい」と言う。「こっちだっておなか空いているんだから」と作りかけのところで、別件で喧嘩になる。それで家を出ることにした。「パパの店に行くから自分でやって」と言うと、やると言うから出かけた。

店には誰もいない。これでやっていけるのか。その前にバンコクへの派遣の求人を偶然発見していて、その条件がタイ語と英語が通訳翻訳できるというものだったので、試しに応募してみると夫に伝える。でも、それには、英語は諦めるとしてもタイ語の集中勉強が必要じゃないか。テキスト持参したがビール飲んでしまった。ダメだ。一杯飲んで帰りかけたら友人から電話があったのでまた店に戻る。そしてもう1杯。ますますダメだ。息子の無勉強ぶりを感じたのか夫が「大学は行けないだろう」と言う。少子化ニッポンでは子どもはお客様であるから、サービス業としての大学ならカネさえ出せば行ける。そういう事情を説明するのも面倒で「あのような子どもであった経験がないから私には分からない、似ているのはアンタだから分かるでしょ、とにかくうんざり」と言い放っておしまいにした。酔いが冷める会話でまた飲む羽目になる。
by kienlen | 2007-10-27 00:30 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

当時の様子が生々しい『犯罪の通路』

読んだからって全部記録できない。これも少し前、多分半月ほど前に読んだもの。本棚にあった昔の本で、読んだ形跡がなくもないから以前に読んでいるのかもしれない。それとも古本で買ったんだろうか、忘れた。文庫の発行は昭和61年となっているが、元の本は昭和45年に出ている。著者は中野並助という方で解説によると「昭和18年から終戦のレッドパージによって退職するまで、日本の検事総長であった」という。その上級検事さんが関わった事件の記録である。なぜか犯罪ものには子どもの頃から興味があった。それは自分の子ども時代にドイルとかルブランとか野村胡堂が出回っていたからだろうか。そういえばウチの親が買い与えてくれたのもこの手ばかりだったなあ。あれは当人が読みたかったからに違いない。当時、田舎で本は貴重だったはずだ。おかげで私は日本を代表する名作みたいなのは読んでなくて、読書感想文にもアルセーヌ・ルパンだった。好きな男性のタイプを聞かれるとかなりの年齢になるまで彼を挙げていた。その後にチャンドラーとかロス・マクドナルドとかアイリッシュになった。来し方を思うと、このような今であるのもしょうがないな、って気分になる。それにしても我が子は何を買い与えても読まないから無駄になるので、私は自分のために買っているわけだ。人生うまくいかない。

というわけで、なんだかなつかしくて手に取った本だったが、ついつい引き込まれて最後までいった。検事さんの見聞していることだから、当時、つまり昭和10年代頃の時代状況が想像できるようで、現在だったら差別用語だぞ、と思われるような用語や表現が出てくるし、ナントカ捕り物長のような大仰な書き方もノスタルジック。犯罪者とのやり取りも生き生きしていて面白いし、検事の仕事も今とは異なるようで、それもまた興味深いし、検察内部の描写もある。なんだか牧歌的。ここまで技術が進化してしまうと、そがれていく部分に文学があるような気もする。きっちり溶接してしまうとポタポタ感がないのだな。いや、その時代なりにあるのだと思うが、もう自分ではそれを感じ取ることができなくなっているようにも感じる。いや以前に感じたかっていうとそれは大きな疑問ではあるが。いずれにしろ渦中にいるくせにそうでないような感覚だ。歳とると時代物が好きになる傾向は周囲を見ていても感じ取れるが、そういえば昭和初期だって今からしたら時代物に入るんだろうか。
by kienlen | 2007-10-25 11:36 | 読み物類 | Comments(2)

『老いてゆくアジア-繁栄の構図が変わるとき』

少し前に読んだ。著者は大泉啓一郎さんという方で、民間企業や公的団体の研究員とか非常勤講師等を務めている方らしくて中公新書から出て間もないもの。この本に興味を持った一番の理由は、バンコク在住時、つまりもう10数年前の「タイの少子化は日本より急速に進むんじゃないか」という感じを確認も否定もできないまま今に至っていることが気になっていたからだ。この本はそのへんを扱っていて、そしてあの時の感じが現実になっていることを教えてくれる。バンコク在住時に私は2人の子を出産したわけだが、2人目が生まれた時に「2人も子どもがいたら貧乏になるね」と言われた時は、なるほどこれがタイにおいては突出した都市のバンコク都民的本音か、と思ったものだ。その彼女は「タイの男は嫌」とかで結婚する気もない中国系のお嬢様だった。日系企業の秘書で自分でコンドミニアム買って、まあ、ある種の典型的なバンコクっ子。自分で洗濯している私を同情の目で見ていた。もちろんタイのお嬢様が自分で家事などするわけない。

アジアの経済発展途上国というと、家族の結束が強くて、日本で失われた道徳や美徳が残っている、みたいなイメージがあることは感じていた。そして笑ってもいた。で、この本であるが、さすがにそんな笑える話しは書いてない。これは人口学の視点なのだろうか、人口動態を中心に各国の動きを俯瞰しているもので、各論としては、ふうん、って思う知見がいっぱいなのだが、最後の最後までどうしても理解できなかったことがある。それは、いまだに経済発展至上主義なんですか、ってこと。私にはよく分からないが、これは経済学の分野の見方なんだろうか。多分そうとも言い切れないように思う。でも著者の学歴を見ると農学部出身。でも農業軽視に見える。私のように、食糧調達を自前でできる方がカネ稼ぎの技術よりエライと思っているし、タイのような食糧自給率100%を超える国の方が経済だけ大国よりも最終的には強いんじゃないかと思っている者には、なかなか理解し難い流れではあった。その点では違和感の強い内容だったが、少子高齢化のスピードの速さ、人口ボーナスという考え方とか、たくさん勉強にはなった。それと国の実情にあった社会保障制度導入の必要性はもっともだ。著者はその分野の専門家でもあるようなので、これはその整備のためのレポートという位置付けなのかもしれない。だったら分かる。
by kienlen | 2007-10-25 01:15 | 読み物類 | Comments(0)

上京して観た「シッコ」

上京した。そしてマイケル・ムーアの新作を観た。少々遅刻して出だし部分を観られなかったのが残念。それから映画館じゃなかったので映画が目的じゃない人もいたようで、ちょうど私の前に座っていた人が落ち着きなく体を揺らし、しかもデカイ。おかげで当方も後方を気にしていられなくて、その男性と反対側に首を揺らしていて疲れた。隣に座った背の高い友人が「代わろうか」と言ってくれたが、マイケル・ムーアのはテンポが速いので見逃すのが嫌で断る。ただ、これまでの作品よりは場面展開が遅めで時系列的で落ち着きがあって、そんな状況下でもストーリーが把握できた。以上、鑑賞環境はともかくとして、これは必見であると言いたいドキュメンタリーだった。マイケル・ムーアは私は好きである。なぜかっていうと、扱うテーマが個人の問題であると共に社会の問題であり、高台からの見物的じゃなくて、グッと低いところから対象に迫っていて、その現象の背景説明が直感的でいて分かりやすく、正義感とユーモアがたっぷりある。泣かせる目的じゃないのに泣けて、笑いを取るのが目的じゃないのに笑えるって、これ多分私らの日常そのものなんじゃないかと感じたりする。

テーマは医療で、料理方法はアメリカの銃社会をテーマにした「ローリングフォーコロンバイン」に似ていた。すなわち、僕達が当たり前だと思っている現実って、実はちょっとヘンじゃない?アメリカってどうしてこうなの?→カナダはどうだ、イギリスはどうだ、フランスはどうだ、キューバはどうなんだ?→どうやらかの国の住民の幸福感は高いようだ→なんでだ?という進め方。次に、個人の自由が最大限に尊重されることによって実は肝心な生命が脅かされているという矛盾への疑問。次に、アメリカ的価値観への基本的な疑問。それと、すごく面白いと思うのは、国民への洗脳教育が徹底しているらしいことと、世界に向けてのアメリカのイメージ作りの巧妙さ。これは正義感からくる真剣さゆえからなのか邪悪な本心があるのか、よく分からないけど、包含というよりは排除の思想が横たわっているように見える。シンプルに言ってしまうと、恐怖心をエネルギーにして生きているって感じ。だからいつも身構えてないとならない。これは結局は不自由なことなのだ。自由って何だろうという点について考えさせられる。少なくとも、これを観てアメリカの医療政策を羨ましく感じる人は庶民の中にはいないんじゃないだろうか。宣伝文句は「世直しリアル・エンターテイメント」だが、まさにこれもアメリカ的っていうか…。
by kienlen | 2007-10-24 23:55 | 映画類 | Comments(0)

行政改革をともに考えるシンポジウム

総務省主催のこのシリーズ全国4か所の初回が当自治体を会場に行われた。申し込みが必要だったので申し込んでおいた。怒りの感情を忘れたらこういう場に参加するのが一番手っ取り早い。総務省の合併推進課の課長という人が挨拶した。副知事が挨拶した。行政機関の関係者の方々は改革改革を叫ぶだけで存在価値がある時代である。まことにもって素晴らしい自己増殖システムが出来上がっている。このタイトルも素晴らしい。「ともに考える」って誰と誰が。集った面子の印象では動員された自治体職員に違いないように思えた。女なんか20人に1人くらいで、ほとんど全員が黒っぽいスーツ姿。挨拶の後は明治大学の牛山先生のご講演。自治体職員を対象に研修の講師を務めておられるらしい学者さん。仲間内で楽しそうだなって感じ。まあ紅葉のきれいなシーズンだし新そばの季節でもあるし、あそこで一丁開催しますか、ってな感じだろうか、なんてまさか、はしたない妄想にかられてしまった。そして事例発表として私も住民である市の職員が都市内分権についてのプレゼンをする。

これはもう怒りを通り越して絶望的になった。地縁組織に「行政自治権の委譲」をして「財源委譲」をするそうだ。私は行政法は全然知らないから、正当性をどこに求めていいか、少なくとも現時点では全然不明な任意の団体に行政自治権と財源委譲ができるって本日初めて知った。これは別の任意団体にも応用できるんだろうか。こっちに行政自治権委譲頼みます、とか、財源委譲頼みます、とか。都市内分権の目的のひとつが「個性ある地域」を目指すようなことを言いながら「今のところ同じようなしくみ」と言うけど、当たり前じゃん、マニュアル配布してんだから。それにそもそも上からの分権強制だし。それでいて「強制されるとやりたくないのは人間の性みたいなもんで」とか言って、この都市内分権だとやる気になるような事を言っている。その論理破綻に気付いているんですか。もう頭おかしくなりそうで吐気はするし、おいらの僅かながらの納税分を返却して欲しいと思った。休憩時間にぐったりしていたら知り合いに声かけられた。「お姉さん、疲れてませんか」って。これで疲れないアナタもアナタって八つ当たりしたくなった。怒りというより悲しみの段階にまで市民をもちあげることで、市民のエネルギーをそぐという巧妙なエネルギー戦略らしい。参ったな。友達に話したら「そんなシンポ行くのマゾ?」と言われたけど、それもコレも税金で賄われているわけですから…。破綻には破綻の日記で応じても意味ないけど………。
by kienlen | 2007-10-23 23:32 | 社会的話題 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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