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かろうじて気力を保ってきた感じの9月だった

暇になった。明日は久々に映画を見に行こうと思う。今月は忙しかったような気がしていたが、ただ移動しているだけで実入りはほとんどなく、持ち出しの方がずっと多い。これでどうするというのだ。明日からはまた落ちついた生活になるような気がする。読みかけの本を明日は読みきれるかもしれない。息子は今週には学校に戻れるかもしれない。娘はビーズ細工をしたいと言うので、今日手芸店に連れて行って買い物をした。しばらくの間はビーズで何か作っているだろう。息子の謹慎という機会に私も決めたこと。

早起きして朝食を作る。夜更かしと酒を控える。ううむ、今月はいろんな事があったな、やはり。よくやってきたな、という気がしないでもない。一段落で体調を崩さないようにしないといけない。秋めいてきた。今日は雨降りで冷える。床暖のスイッチを入れたいくらいだが、ここまで灯油が高いと恐ろしいから我慢する。今年も残すところ3か月だ。早めに寝ることにしよう。
by kienlen | 2007-09-30 21:18 | その他雑感 | Comments(2)

仕事半分旅気分半分の日

仕事先に娘を連れて行った。つまりそういう類の仕事なのだが、実は環境のいい場所でもあるし遠方だし、宿泊を予定していた。それで娘には以前からそう言って、彼女は楽しみにしていた。ところが息子の不祥事である。親が監督責任がある期間に残しておく気にもなれず、かといって連れて行くのも気が進まない。それで「兄ちゃんが重大な時だからもっと落ち着いたら連れて行く。今日はママが日帰りで行って来る」と昨日言ったら大泣き。娘に非はないから泣くのはごもっともだ。それに、私も娘と出かけるのを楽しみにしていたのだ。夕食を食べたら気分が落ち着いたようで娘が自分から「日帰りでいいから一緒に行きたい」と言い出した。それならOK。仕事の間は1人で遊んでいると合意して出発。峠越えのコースにして、途中でおいしそうなものがあったら食べながら行くことにする。
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娘と一緒はなんて平和なんだろう。とにかくすべてがフツウに静かに進行する。会話はフツウにかみ合うし、表現力はフツウにあるし、周辺事情を把握する力もフツウにあるし、なんというか存在そのものがフツウである。全くもって、この子と私だけだったら何の問題もないような、恐ろしい錯覚に陥る。息子がいることによって修行させてもらってはいるが、娘といると、なんでこんな余計な修行をしなければならないのか、ますます腹がたってくる。このところの問題続きで疲れているから楽しむことにして、自家製チーズの老舗の店に入った。ショップをブラブラしていて「チーズのモンブラン」を発見。ケーキなんてあんまり興味ないけど、チーズが好きなので興味深々。それで喫茶店で一休みして食べることにした。
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私はコーヒーを、娘は自家製飲むプレーンヨーグルトを注文してチーズのモンブランを分け合って食べる。美味しかった。いろいろ散財して夕食時には2人分を注文するだけの手持ちがなくなっていた。それでモツ煮定食をひとつ取ってまた分け合う。母娘密着なんて別世界の話しと思っていたが、このまま平和でいけるなら気持ち的には分からなくもない。息子だけでも味わえない感情だし、かといって娘だけだったら比較対照の相手がいないからこのフツウさが身に染みることはなかったかもしれない。問題山積みだけど、とりあえず楽しんだ日だった。
by kienlen | 2007-09-29 22:23 | | Comments(0)

基礎からガラガラ崩れている感覚

朝方玄関のチャイムが鳴ったので出たら男の子が1人立っていた。息子の中学時代の友人だった。野球をやっていた子だ。丸刈り姿。息子に会いたいというから「今は友達に会えない」と説明したのだが、平日のこんな時刻になんでここにいるのか。「学校は?」と尋ねると「いろいろあって辞めました」と言う。「じゃあ、働くの?」と聞くと「別の高校受けます」とのこと。しばらくしたら会えるから、と帰ってもらう。これを謹慎中の息子に報告する。その子は野球推薦で入った高校で先輩とうまくいかなかった、という噂とか。「そういえば△君も高校やめたって話しだよ」と言う。なんだか世の中が根っこのところから変化しているように感じる。今回の息子の一件でつくずく感じたことは、家庭が受け皿になれる場合はなんとかなるとしても、すべてがそうもいくまい、ということである。で、仮に家庭に受け止める力がない場合、子供はどうなるのだろう。このあたりの中間的役割を果たす機関があまりにない。

かなり前だが、ヨーロッパの国の男性が妻である日本人女性と、子供を巡って家裁で調停している時に、その彼が「裁判所の決定が守られない。公の機関と家族の間に立つ機関がないからだ。子供が安全に親に会えるような場所が必要だ」と言っていたことを思い出して重なった。そもそも家族の人数だって減っているんだし、何か事が起きた時に受け止めるだけの層が薄くなっているのだ。先日も、友人が「結婚しないできた人達が親の介護をする時期になっていて、その人達が介護休暇を取るから人手不足で大変だ」と話していた。他人事じゃないよ、と40代も半ばを過ぎたその友人、独身。何かが機能不全に陥ったら何かが機能を代替しないとならない。その事を真剣に考えていかないと大変なことになるような気がする。
by kienlen | 2007-09-28 23:42 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

新聞の片隅の小さな記事から

仕事時間1時間のために3時間待つ。こんな仕事を受けるのはやめるべきかもしれない。潮時かもしれない。毎回そう思いつつ…。待ち時間に夕刊を見ていたら、交通事故で、一緒に乗っていたタイ人女性が1人死亡で1人重体、という小さな記事が目についた。反対車線に入って対向車とぶつかったらしい。身近にこういう事が起きる社会になっている。日本の苗字が書いてあることから、日本人の配偶者と思われる。年齢が22歳と23歳って、もしかして同じ村から一緒に嫁いだ知り合いか親戚かも、などと、ありがちなケースを想像してしまう。年齢から想像するに、もしかして来日間もないのかもしれない。だとしたら国際免許証かもしれない。だとしたら運転技術が極めて未熟な可能性もある。だって、タイでは日本のように教習所で厳しい訓練を積む、なんてことは全くなくて、極端に言えばろくに運転ができなくたって免許証の入手はできる。今は昔よりは厳しくなっているかもしれないが、できないことは多分ないだろう。

しかも、タイの道はほとんど平坦で、日本の道とは違う。飲酒運転は当たり前。このところ飲酒運転の取り締まりが厳しくなっているとは聞いているが、10年の間に完全にひっくり返るということは通常はないから、私がいた頃から逆算するに、いくら厳しくなったって、多分まだ普通になされていることだろう。彼女たちがそうだったんだろうと言いたいのじゃなくて、つまり、国境を挟んだ法律の適用の難しさについてなのだ。日本では運転免許証の信用度はまだ高いと思う。あれだけの時間とカネをかけてこそ取得できるもの、という意味で。でもそんな国ばかりではない。タイも違う。で、信用度の低い国内免許だって国際免許証にしてしまえば、期限内なら日本で運転する権利は生じる。日本語が読めずとも、標識の意味を知らずとも。国際免許を日本の免許に切り替えることもできる。この手続きは簡単とは言えないが、そんなに難しくもない。とにかくそういう諸々の条件下にある人々が道路を走っているのである。そういう世の中にとっくになっているのに、気付いてない人も多いみたい。ごくごく身近な話しなんだけど。
by kienlen | 2007-09-28 00:16 | タイ人・外国人 | Comments(6)

仕事と家庭の関係についてちょっと

息子の処分を決める会議に先立って担任から連絡があって「家庭反省になった場合家で見てもらうが、確かお母さんは家でお仕事でしたよね」と聞かれた。家でお仕事と言えば聞こえはいいし、私にとってもあこがれだが、今は外回りが多い。そのまんま肯定するのもためらわれて「どっちにしても両方自営業なので勤め人よりは融通がききますし、息子の件を最優先させます」ときっぱり言ったものの、それに気持ち的には本意なのだが、事はそう簡単じゃない。自営だから融通がきくという面はあると思うが、多分有給取ったり休暇の権利のある企業の方が自由度が高いように傍目には見える。何が困るって、1回1回が勝負みたいな私らは、その1回をないがしろにしたら次がないという強迫観念にかられてしまう。こっちが主体的になれる都合のいい仕事はそうそうないから、子供が順調な時に暇で、問題が起きた時に忙しくなることだってある。何しろ誰かに代わってもらえない。そこで昨日も本日も外出である。息子には、その間に気を抜くことなく学校の通りに学習することを申し渡しておく。いつもと違うのは、ちょっと早めに出て温泉に寄ろうなんてことは考えないことで、ギリギリの時間まで家で粘って、事が済んだらひたすら帰る。それだけ。

それにしても仕事って何だろうと、いつも思う。よく「家庭を犠牲にしてまで…」とか「家庭優先」とか言うけど、こういう区別はできるものなのだろうか。優先順位をつけられるものでもないし、仮に家庭優先っていってもどういう意味だ。家庭の雑事があれば仕事を休むってことか。子供の学校行事のために仕事を休めば、それは子供優先なのだろうか。私には分からない。とりあえず私の場合は、どっちも大事である。違うのは、仕事は成果なり失敗なり分りやすいが、家庭にとってのそういうものは分りにくいってことだろう。手をかけたからどうなるか分らないし、手抜きしたからどうなるかも分らない。そうなるとどっちに転ぶかというと、成果の見える方にいきがちだ。で現代ときたら、自然と共にあるような不確実な仕事、なんというか本来的な仕事は減っていて、私もそうだが身体機能のごく一部しか使わないようなのが多い。するとのめりこみ方も深くなる。今日は雨で仕事にならん、という日がないわけで。で、子育ての方は不確実そのもの。でも、不確実そのものって思えるうちはまだマシかも。仕事や勉強の感覚で確実なものにしたくなったら、やっぱ恐ろしいことになるんだろう。で、そんな気配が社会に生まれているような気がする。
by kienlen | 2007-09-27 09:10 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

「家庭反省」という処分

昨夕の決定で「家庭反省」を申し渡され、息子は本日から処分期間に入った。生徒指導の担当から期間中の過ごし方について細かい指示があり、その後で担任から説明があったが、毎度のことながら、親として私が息子に言っていることと、先生の見立てと対策は見事に同じである。期間中は外出禁止で、自宅で時間割に沿って教科学習をし、反省文用の原稿用紙に毎日反省文を書き、毎日の記録を別紙につける、というのが指示内容。私は子供の頃から日記や手紙を書いていたし、やたらに書くことが好きだったが、息子が日常生活の中で活字と接する機会は極度に少なく、自分で書く姿なんて見たことがない。そもそも文章を書けるのかどうかも心もとない。とにかく、自分にとって「自然にできるようになるだろう」と思っていたことと、現実の成長の方向性があまりに違うのである。これが最も大きなとまどいだ。そのうちに…と思いつつ今に至ったわけだが、これをいい機会にしてゆっくり自分を見つめるように言う。昨夜から早速作文を書かせることにした。そんなこんなで火曜日の店番には大幅遅刻が明らかだったので夫に先に入っていてもらう。

息子に指示してから、夫と交替。「書いたら仕事机の上に置いておくこと」という約束は守られた。今までだったら約束を守らないのがフツウだったから、こんな当たり前の事で嬉しくなる。ビールを飲んでいたが、親も本気でやらないとな、とは思っているから作文を読んだ。文字の間違いは多少あるが、思ったよりずっとちゃんと書いてあってびっくりした。この「思ったより」が取れるといいのだが…ま、多くは望むまい。作文のポイントとして伝えたことは、心にもないきれい事は書かないこと、心に分け入るようにしてその様子を描写すること、決まり文句で表面的にまとめてしまわないこと、まとめることを考える必要はなく、続きを翌日に持ち越すのは構わない、等。これじゃあ「心のノート」みたいで不気味じゃないかと、いつもは思うが、それは、内省的な人間を基準にしてのことであって、やはり1度踏み入ってみることは大切だと思う。ただし、それはあくまで当人がやる事であると私は思っているから、誰かに踏み入れられないためにも、訓練を積んでおいた方がいいだろう。心の闇を照らして晒せというのじゃなくて、どうコントロールするかじゃないだろうか。
by kienlen | 2007-09-26 08:32 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

戦後レジュームと子育て

息子が重大な局面にいる。今日学校の処分が決まると担任から連絡があった。私も出頭である。ここまでの事態を経験するとは、正直のところ思っていなかった。息子は、謹慎期間が休んだ期間として算入されるかどうか気にしているが、私だって経験ないから知らないし、ただ分ることは、それだけの行為をしたからには、進学にしろ就職にしろ学校推薦は考えられないから自力で努力するしかない、ということである。この事は、中学の時の内申書で経験しているはずなのに、分っていない。悲しい。こういう契機には、当然ながら、親として問題があるのだろうかと振り返る。でもこれも正直のところ分らない。少なくとも今のところ、自分の方針を根っから転換することは考えていないし、そもそも根っから転換できるような薄っぺらいものを方針などとは呼べないのだから、しょうがない。まあ、根っこから腐っている人間に育っているとまでは思えないから、養分やら陽光やら水分やらの過多か欠如か程度の微調整を施すつもりである。それで通用するのかどうか、これまた正直のところ分らないけど。

というのは、いずれにしろ実行できることは限られているという事実はどうしようもない。実験室のように、これやってみよ、あれやってみよ、ダメならやり直し、みたいにできるといいけど、一貫性がないのは私自身が嫌いなのだ。それは自分の親が、一見物分り良さそうで信じていたら実は本音は違う、という経験(というか、自分なりの理解でしかないが)をして、それだけは嫌だとずっと思ってきた。それが、今になるまで自分がひきずってきた親への負の感情であって、なかなか根深いのである。それでまあ、頭の中のシュミレーションだけが自由なわけだ。ひとつ感じることは、親として民主的過ぎるんじゃないかってことだ。もっと強圧的に接して罰則も与えて、こうすべきって道筋を示して強制した方が良かったのかもしれない、と思うことはしょっちゅうある。ただ、私はそれができない。基本的には、自立を見守りたいと思っていて、それは可能だと信じているからだが、それは当人の資質によって違うんだろうとも同時に思う。この子ならこうで、この子ならこうって使い分けが器用にできるといいけど、こっちが分裂しちゃうな。以上は私個人の体験している事であるが、きっと、戦後に民主的になりすぎて問題噴出と思っている人達の心理もこんなもんかもしれないな。一国の、じゃない一家の、代表じゃない、一員として、国民の、じゃない息子のために、半端な伝統回帰を持ち出すより民主化を突き進めるしかないだろう、がんばる。
by kienlen | 2007-09-25 14:57 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

助手席で息子がしんみり吐いた言葉

「落ち着くなあ」と助手席に座った息子が目線を少し上気味にして言った。昨日の現場に自転車を置いて来たので、取りに行きたいから車を出してくれと言われて出ようとした時のことだ。そういう感覚は分かるような気がする。なんだかざわざわした気持ちだったり、テンション高くなったりしていたり、怒っていたりという、地面より数センチ上辺にいるような気分の時期と、地上に生きていることがしっくりくるような時期というのはある。「そういう落ち着いた気分をちゃんと覚えていて、何かあってもそこに戻ることが人生大切」と昨日からの説教の続きをする。さすがに事を起こした後だからいつもより素直であり、そういう時期にインプットしておくのは重要なのだ、という魂胆もあるが、私もその時は彼の嘆息が染み入るような気分ではあった。私自身がこのところ慌しかったように思う。それは反省事項でもある。かといってやりかけていることを放棄するわけにもいかないから、しばらくは時間を食い食いの生活にはなってしまうのだが、巻き込まれないようにしなければならない。

こういうことを子供は意識しなくても察知するのだろう。前に、引っ越しと新しい仕事が重なった時に、やはり息子の落ち着きがなくなった。息子と娘を比べると、外的な変化に敏感なのは息子であるように感じる。彼が初めて飛行機に乗ったのは、バンコクから日本への一時帰国の時で生後3か月だった。飛行機の中では少し寝ていたが、成田からの電車の中は泣きっぱなしだった。幸いその時は夫がいて、泣き叫ぶばかりの息子をデッキで3時間抱っこしてくれたので、夜行の飛行機の中で赤ん坊が座席から落下しないか心配で全く眠れなくてダウン寸前だった私は休息することができたが、あの泣き声はまだ耳に残っている。娘の初乗りは生後4か月。息子の苦い思い出があったから飛行機の座席も赤ん坊用の簡易ベッド利用をリクエストして、電車の中で泣かれることは覚悟していたが、そんな気配は皆無だった。今と過去と、そして大切ではあるのに不確実な未来を行きつ戻りつしながら子供を見守っていくしかない。
by kienlen | 2007-09-24 19:55 | 家族と子供の話題 | Comments(2)

笑えない事態、書けない事態

息子がとんでもないことをやらかして、昨日はその処理で夜中までかかって書けず。日中は車で1時間ばかりの場所でちょっと仕事で、ついでに知人宅に寄って帰宅して市議選の投票に行き、風呂に入って夕食の用意をしようとしていた時まではいつもの日常だったが、その後から深夜までは、もうショックの連続であった。食事する気にもなれずにいたが今朝はうどんを作って食べてコーヒーも飲んだ。家族の問題が生じた時に、夫が頼りになるっていいだろうなと思うことはある。頼り、とまではいかなくても少なくとも話し合えるとか。ウチはそれがない。これ事態は問題にされればなるのだろうな、といつも思っている。古典的(なのかどうか?)な家族観からすると、女が強くて男の存在が弱いと子供に問題が生じるって言われている、というか、私ははっきり友達からそう言い渡されたことがあって印象に残っている。そして、そういう説はどうやら本当にあるらしいが、説に惑わされるわけにもいかないからな。

いずれにしろ、我が家で夫が対外的な折衝に当たるというのは考えにくい。世間的なふるまいというか、佇まいというかが、決定的に日本人と違うのである。もちろん同じくしろとは思わないし、私はかなり徹底して人はみんな違うと思っている方なので、違うことへの負の感情も正のそれもないが、ただ、自分の場合、場面場面で、タイだったら人々の一般的振る舞いはこうであろう、とか、ここでタイだったら笑っても顰蹙じゃないけど日本はな…とか浮かんできてしまって、それをどっちがいいとも悪いとも思わないが、でも対外的な空気の差を察すると、その差がない方が合理的である時にはない方を選択したくなる。その差で面白がる時は使えるんだけど、それは冗談みたいな場でしかなくて本気の場ではないのだ。多分、そういうことは子供達も感じていると思う。言語化はできないと思うが。ここまでは自分が引き受ける覚悟をすればたいした問題ではないが、夫がこれをどう感じているかが分らないことに一抹の不安を覚えるこの頃。家族内での存在感を得られないと見るか。これは私の本意ではもちろんないが、彼の真意までは知る由がない。ま、しかしここまで片親家庭が増えると、10年前に保護者欄に自分の名前を書いて「フツウは父親の名前」と言われた経験が懐かしくもある。
by kienlen | 2007-09-24 13:29 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

新書の楽しみ満載の『これが憲法だ!』

長谷部恭男と杉田敦の討論本。分りやすくてすごく面白かった。2人とも1950年代後半の生まれで私も同世代。この年代の人になんとなく感じるのは、理想主義的ではない、押し付けがましくないというところだろうか。そういえば聞こえはいいかもしれないけど、夢がなくて閉じている、ともいえる。杉田敦はもともと好き。でも、それでこの朝日新書を買ったわけではなくて、この間読んだ宮崎哲弥の新書紹介本で長谷部先生への評価がとっても高かったので、それはなぜだろうと読んでみたくなったのだった。で、本棚を見たら未読のがあったのだが、本屋に行ったらこっちがあって、こっちを優先させてしまって長谷部先生の『憲法とは何か』は後回しになった。憲法学者と政治学者の対談なのだが、杉田敦の突っ込みが面白いので終始楽しめた。9条なんか即刻変えろみたいな宮崎哲弥だったけど、その宮崎からも評価の高い長谷部先生を含む2人の最終的結論は、憲法を変える合理的理由はないでしょ、というものだった。それがなぜかの説明とも言えそうな1冊なのだが、なるほど憲法って奥が深いんだ、と深くため息をついた。

各章のタイトルは「憲法はデモクラシーを信じていない」「絶対平和主義は立憲主義と相いれない」「憲法解釈は誰のものか」「絶対的な権利なんてない」「あらゆる憲法は『押しつけ憲法』である」『憲法を今変えることは無意味である』というもの。これだけでも相当な情報量であるな。どこを取ってもスリリングで、杉田先生が油断して馴れ合いになるような箇所が全然ない、というまとめ方をしている。今は緩いとか癒しがキーワードみたいな時代だが、それには逆行しているのがまず私には好感である。こっちは本気で読んでいるんだから本気で討論してくれ、それを本気でまとめてくれ、とまじめに思っちゃう年代なのだな、きっと。最後の方でやっと笑みが登場する場面は杉田先生のこの質問。「…首相の任期を変えるとか、自治体とか、九条以外の統治機構を少しいじってみることが、いまの人びとの閉塞感みたいなものを変えるとか、何か癒し効果は期待できますか」。長谷部先生の答えは「憲法は、人びとの閉塞感を癒すためのものだとは思いません(笑)」。杉田先生が鋭い質問を、でもポップな感じで投げかけ、長谷部先生はあくまで襟を正してきちんと答える。ディベートと漫才をミックスしたみたいだった。憲法というものから一歩も離れることなく、ここまで飽きずに読ませるって感心。こういう本は新書の楽しみって感じがする。
by kienlen | 2007-09-22 10:32 | 読み物類 | Comments(4)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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