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4時半までは外出禁止

やるべき事があってパソコンに向かってやっと集中できそうになってきた時に、息子が帰って来た。まだ12時半。一瞬サボりかと思ったが、親に似ず集団が好きで協調性ありの彼にとって家より学校の方が居心地がいいはず。先生達の用事で給食なしで帰宅ということだった。郵便受けにこの間のちょっとした仕事の振込みの連絡がきて3000円(桁違いではない)入金になるそうなので「ご飯食べに行く?」と聞いたら、当然「行きたい、行きたい」と言うので行く。節約生活ができないくせにろくな稼ぎもなし。この生活は長続きはしないだろう。中学の横の道を歩きながら「○先生がいる、△先生もいる、×先生もいる。緊張するなあ」と言うので、何のことかと思ったら、先生は働いているのに生徒は帰るという時は「4時半までの外出禁止」になり本日も適用日。

入学直後の家庭訪問の期間が最初の経験で、忙しい日は「弁当買って」と言うと「外出禁止だから買いに行けない」と言う。この措置の理由を複数に聞いたところ「学校の時間と解釈できるので家で勉強する(でも友達の家に行って合同勉強はいけない)」「中学の男子がたむろしていると地域の大人が怖がる」「トラブルに巻き込まれてもいけない」等諸説あり。信頼できる筋=学校教師の友人によると「学校にそう要望するのは親」とか。そこで、私は個別懇談の時に先生に尋ねた。「何か問題が起きても学校に責任転嫁はしませんから、必要に応じて外出させたいのですが、校長先生宛に誓約書を書けばいいですか」と。先生は「そ、そこまでしていただかなくても」ってことでウヤムヤになった。で、念のため教育委員会に理由を聞いてみた。公式発表に面白いものは失言以外ないので、上述に少し色をつけた程度+大人が中学生を怖がる説には言及なし。一律に強制しているわけではなくて、生徒指導の先生達の話し合いが源で各校で対応するとのこと。そりゃあ、下校後を強制できないでしょう。学校の図書館にでも監禁してくれるとありがたいのだが、中学生への不信感データを私なりに総合すると、本を痛めると言われそうだ。何かあると面倒だから、えーいみんな禁止だ!というのは決定する側にとっては楽だ。でもこういう決定の背景には親の要望も見え隠れするのがやっかいなところ。ちなみに私は学校は学校の方針を責任をもって説明すればいいと思っているが、各方面ねじれつるんでのウヤムヤ社会の怪は核がないだけに手ごわい。
by kienlen | 2006-05-31 15:04 | PTA・学校 | Comments(0)

わけのわからない本を読んでしまった

草薙厚子『子どもが壊れる家』という本を読んだ。文春新書は、こういうトンデモ本が多かったんだったかな、と思って本棚を見てみたら何冊かあって、そうでもない。読書に集中できるという日でもなかったので、何か気楽に読めるものと思って見渡していたら、未読のこれを発見。今の経済状況だったら買わないだろうが、当時(といってもいつか忘れた)は金回りがよくて、気分もヘンになっていたんだろうか。とはいえ、子育て中の親としてはこういうタイトルには弱い。特に私のように母親に向いてないと思っている身にはこたえる。そういうところを突いて書いているんだろうけど。興味をもった理由は著者の経歴で、法務省東京少年鑑別所元法務教官だからだと思われる。昔と違って普通の家庭から犯罪少年少女がでている→一体何が起こっているのかを実例から考察→親の過干渉とゲームがいけない、というお話。これ自体は私には否定も肯定もできない。根拠を持ち合わせていないから。個人的にはゲームは嫌いだから子がのめりこむことは警戒しているし、過干渉もいいとは思わないので、いわんとすることが馬鹿げているとは思わないけど、問題は一文一文の成り立ち。

「特に体格も大きかったわけでもないAがなぜ、ボクシングの選手になりたいと言ったのでしょうか」→相撲ならともかくボクシング選手って小柄な人もいるでしょ?それに幼稚園時代に将来の体格が分かるのか? 「いじめが横行する学校は誰もが行きたくない場所でしかなくなりました」→誰もがって、本当ですか?少なくとも私は学校が好きで行っている子を何人も知っている。「現代に生きる私たちは、昔に比べて便利なモノを子どもたちに与えることの是非を、深く考え込んだりはしないものです」→私は考え込んでいますし、友人らもそうです。現代に生きています。「近年の凶悪少年事件が、こうした家庭・学校環境の変化を背景に起こっていることは間違いありません」→なんで自信をもってそこまで断言できるのか不明。「」内は引用そのママ。こういう摩訶不思議な文章が数え切れなく並んでいると、何か良い事を言ってくれても信用できなくなってしまう。この手の本だったら家裁調査官の藤川洋子さんのが、納得できます。
by kienlen | 2006-05-30 23:37 | 読み物類 | Comments(0)

どうやら過渡期にいるのだろう

ここ数日、朝の目覚めがいい。寝酒を泡盛に変えたせいだろうか。なるべく12時前、超えても少しにして過度の夜更かしをやめたせいだろうか。というわけで、朝のうちに一仕事できるようになった。といっても、仕事と呼ぶにははばかられる、ちょっとしたもんしかやっていない。それ以上のものをやりたい気力のようなものが沸いてきた気がするが、これはある意味やっかいなことでもある。やりたいのにないという事態は結構辛い。要求と現実の差が小さいほど不満は少ないんだろうから、要求レベルを下げるという対処法と、目の前の現実の変革に挑むという方法があるのだろうが、自分の場合はほとんど前者で生きてきた気がするのは、改めて振り返ってみると、実にだらしないことである。さらにやっかいなのは、自分にできないことを人に強要できない正直さ。こういう人間が子育てをすると、どういうことになるのか、という見本が息子のように思う。実は昨夜も息子の件で「全く男は分からない、家出したい」と夫に電話したばかり。「子供は自分でみるから、あんたはなるべくしゃべるな、とにかくしゃべるな、考えすぎるな、考えると健康を損なう」というのが彼の考え方。だから朝は目覚めても起きないで残り3人に団欒のひと時を提供しているし、なるべく自分の部屋に閉じこもっている。

確かにどこまで子に関わるかは難しい。仕事が忙しければ時間も精神的余裕もないので、見えないところが、暇だと見えてしまう。見えた上で優しくアドバイザー的、温情をもって接することができるといいのだが、多分これも才能なのだと思う。難しい。そうなると泥沼で悪い方へとばかり考えが進む。ということをとりとめなく考えて健康を害しそうになっていたら、やはり息子を持つ友人から電話があった。かなり深刻な内容。で、他人事ではない内容。自分が育ったのは山の中だったから物理的制約の中にあった。山を放浪したところで限界があって、嫌でも家に戻らざるを得ない。町中にいると、深夜の徘徊も可能だし、出会いもあるし、やろうと思えば何でもできる環境が整っている。さらに世間の目というのは10代後半男子がたむろしていたら、犯罪予備軍のように見がち。行き場がない。当人達もかわいそうだが、親も大変だ。家に閉じこもってネットやDVDやゲームにはまっていればいたで、問題視されることにもなる。子供達にとっては過酷な状況といえるだろう。なぜか、いくらやっても問題にされないのはお勉強。これはこれで異様な感じもするが、もうこういう時代であるから、勉強遺伝子を全ての子に埋め込んでしまえたら平和になるかもな。
by kienlen | 2006-05-30 11:54 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

あの米原万里が…

出たり入ったりしながらも全体としては朝から晩まで外にいた日。帰宅してメールをチェックしたら友人からの「米原万里が死んだ。56歳という私達とそう違わない年齢。もっと意見を言って欲しかったのに元気がなくなる」という文面のがあった。驚いてネットのニュースをチェックしたがなかなか見つからず、間違いであることを願って電話したが、確認しただけだった。この友人とは昨年、米原万里の講演を聴きに行ったし、お互い彼女のエッセイが好きなので借りたり貸したりしていた。電話でどちらともなく「世にはびこっている問題の人々じゃなくて、なんで米原万里なの」と言い合った。あんなにユーモアと皮肉にあふれて核心をつくエッセイストが1人減ってしまうとは、実に残念。自覚もなく不条理劇を演じる人々に「それ、ちょっと違わない?」と舞台の裾から冷静に言ってくれる貴重な声がまたひとつ消えたような感じがする。

エッセイというと、日常の何気ない一場面を綴るというイメージがなぜだか浮かんできて(これは私の思い込み)、そういうのは興味がないので普段はほとんど読まないが、米原万里は別格だ。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で、私は自分の知らないことをいろいろ学ぶことができたし、何より、途中でやめられなくなる面白さと、それから、このひねったタイトルが象徴するような重層性が頭の芯のところを刺激してくれる。ギブスの上から掻いていたのを、叩き割ってから掻いたような快感を得る。私は彼女のエッセイをお風呂に常備している。お湯に浸かって読むには、濡れて本がいたんでも惜しくない文庫で、章ごとの独立性があって、難解でなく、深く味わう文学のようなものでもなく、あまり熱くなるものでもなく、絶望的になるものでもなく、となると雑誌を除いてはエッセイなので、イコール米原万里。今は『ロシアは今日も荒れ模様』があるが、これは笑いが止まらない。続きを読みたくて風呂から持ち出すこともある。昨年の講演もとてもいいものだった。書いたものがいいから実物がいいとは限らない中で、貴重な人だった。
by kienlen | 2006-05-29 21:22 | 読み物類 | Comments(0)

バンコクの危険な建築物

バンコクから客人があった。私達がバンコク在住時に住んでいたタウンハウスの借主で、10年近く住んだので気分転換もあって引越しをするということ。少しでも家賃収入があるとタイへ行った時の足しになるし、私としてはタイへの短期でいいから留学が夢なので、その費用にもなるな、と思っていたので引越しは残念だが、しょうがない。懐かしい家の近所の様子を聞いて、10年の間の変化は大きいものの、決定的に秩序だった国に変身したわけではないことは分かった。タウンハウスというのは、日本でいうところの長屋のようなものだ。壁を共有しながら長々と同じタイプの住居が並ぶ。2階建てもあるし3階建てもある。一戸建てより手軽で、治安の面でも気分的には安心感を得られ(屋根から泥棒が入ったのを目撃した友人もいるのであくまで気分的)るし、1階を食堂や雑貨屋や仕立て屋にするなど商業目的にも利用しやすいので人気がある。

本日の客人によると、近所は一時建築ラッシュで眠れなかったらしい。なにしろ隣家と壁を共有しているのにもかかわらず、隣も向かいも新築、というか増築したのだそうだ。それも、向かいは4階建てで隣は3階。もともとは2階建てのもの。壁を共有する隣でガンガンやるのだから地獄だったという。そして「地震があったら倒壊ですね」と客人は自信あり気に言う。バンコクは地震がないということになっているので、私が在住時に遊びに来た友人の建築士が、建築中の建物を見て声を失っていたが、実は揺れなくてもつぶれる建物は結構あった。記憶に残っているものでは、地方都市においては外国人も泊まるしコンベンションにも使われるようなホテルが倒壊して多数の死傷者がでた。それから職場の同僚だったタイ人が買ったコンドミニアムが、だんだん傾き始めてとうとう倒れたと、すごく悩んでいた。建築主は、金を払ったら建て直すと言っていたとかで「庶民は騙されるばかり」と嘆いていた。有名人や外国人がいない限り、たいした問題にはならないのだ。過酷であるが、あそこまで徹底していると、そもそも誰かをアテにしようとか保証してもらおうという発想にならないので、潔くなる、というかならざるを得ない。
by kienlen | 2006-05-28 22:30 | タイの事と料理 | Comments(0)

息子の仕業か泥棒か

量があるとか難易度が高い、というわけでなくても、在宅ワークの難しさというのはある。家庭内(といっても=子供)に問題が起こるとそれに影響されてしまうという点だ。子供が小さい時に一番苦しかったのは、寝かしつけることだった。今日はやらねば、という時に限ってグズッて寝ない。子供の躾けに関しては自信がないが、自信をもって躾けたといえるのは、小さい頃は6時前後には夕食をとり、7時頃には、さあ寝ようという気分にさせて8時には布団に入るを守ってきたこと。そうすれば以後の時間を仕事なりに当てられるからというのが最大の理由。かといって、おとなしく眠るなんてことはあり得ず、特に娘の方は寝つきが悪い。親があせるとその波動が伝わるのか子も不機嫌になる。寝たぞ、と思って静かに去ろうとすると子の方も目覚めてしまう。結局、自分も一緒に早寝して3時とか4時に起きて仕事するのが合理的なのだが、これも結構リスクがある。必ず仕上がるというレベルまでもっていってからの最終手段にしないと、間に合わない可能性があるし、そんなことは仕事の場合あり得ないし、それから誤算だったのは早寝すると早起きするので、つまり子も早起きしてしまって、そうなると早朝仕事はオジャンである。

少子化が問題にされていて、それは労働人口の減少とか市場の縮小とか社会保障制度の崩壊という面から語られることがほとんどに見えるが、全然別の観点から、社会は変わる、と予測できる。赤ん坊を相手にすると自分のコントロール力など無であると実感し、寝かしつけたり抱っこもオンブも不要になって成長したからといって、それも意味するところは、ひたすら自分の意のままにはならない存在と共に在らなくてはならない、という点では似たようなもの。離婚も退社も自分が覚悟を決めれば不可能ということはないが、それと子供を同じにはできない。これを経験しなくて済めば、案外、全能感を維持できるのかもしれない。仕事は自分が努力すればできるぞ、とか、時間配分は自分さえしっかりしていれば予定通りにできるぞ、とか、自己責任で何でもやるぞ、とか。これって、自分以外の家族に子供を任せてご活躍してきた多くの男性が作り上げた社会でもあるから、変わるというのではなくて、多様性を失って美しく統一されるということかもしれない。ああ、こんな事を書くつもりではなかった。ある場所に隠しておいた私の財産が消えていたのが息子の仕業か泥棒なのかで謎が深まっていて、子育ての辛さの真っ只中に自分を見出してしまって、意気消沈しているのだ。
by kienlen | 2006-05-28 10:26 | 家族と子供の話題 | Comments(1)

初めて英語の授業を見学

学校開放日ということで、授業参観に行った。1時間目が総合の時間を使った英語の授業。新任で英語専攻の先生が担当する。いかにも、楽しく英語に親しむ、が学習目標であるかのようなゲームを多用したサービス精神を感じるものだった。1,2,3…という数を教えるのにも、各人が自分の数を記憶して、その数を順番に言いながらぬいぐるみを手渡しして速さを競う。声の大きさも判定基準になっていて、小さいと×の、聞こえると○の札があがる。子供達は楽しそうに歓声を上げながらやっている。私のようなゲーム嫌いは、自分が小学生だったらこれを楽しめるのかな、と考えながらそれを見ていた。大きな声も苦手だから×の判定が下るかも。自分がやるわけじゃないからいいのだが。

英語を習っている子は相当いるから、そういう子にとっては簡単すぎる授業だろうと思う。実際、単語などは先取りで答える子がたくさんいた。娘は英語は全くできないので退屈はしていないようだ。総合という時間を使って週に1回やる授業でどういう効果があるのか、私には分からない。しかし、他の授業を減らして総合を作って、それを使って科目を勉強するとなると、何のための総合なのか不思議なことである。文科省の方針はよく変わるが、私にはどうも、勉強しすぎた人達が、自分の経験を元にして、勉強時間が長すぎるとかいって減らしてきただけのように思えてならない。一体子供は、そんなに勉強していたのだろうか。何をしたところでする子はするし、しない子はしなくて、だったら、学校で最低限の知識を身につけることを目指さないと、格差が開くのは当然だ。それを良しとする方針であれば、それはそれだが、今になって格差が問題というなら、どうして「生きる力」なんてことを持ち出したのだろう。それに生きる力はどこに行ってしまったの、って感じ。遊びの授業を見ていて、数と挨拶の決まり文句を覚えることの意義を考えていた。そんなもの、中学になって自分で覚えようと思えば1回で覚えられる程度のものだろうと考えると無駄なような気もするが、門外漢の自分には分からない。ただ、中学の授業との連動なしに一部で取り入れても、それまでのこと、って気がした。ずっと思っていることだが、この程度の英語をやるんだったら、英語だけよりも、むしろいろいろな言葉の違いを体感する方が楽しいし貴重な機会になるように思った。中国、ブラジル、フィリピン、タイなんかは学校に何人かいるし、そういう人の協力を得たら不可能ではないと思うのだが。
by kienlen | 2006-05-27 18:36 | PTA・学校 | Comments(0)

ナイロビの蜂を観に行った

『ナイロビの蜂』という映画を観た。それもわざわざ80km以上も離れた村のシネコンまで行って。公共交通機関がないので車しかない。遠方すぎる、でも観たい、で迷っていたのだが、ちょっとした仕事が予定外に早く片付きそうだった上、そちら方面に勤務する友人が「高速代を払うから乗せていって」と言うので、その話に乗ることにして急遽行く。高速を使うと楽だが、高すぎて映画1本のためにえらい出費になってしまうから助かった。ジョン・ル・カレの原作ということなので静謐な雰囲気を想像した。キャッチフレーズは「地の果てで、やっと君にかえる」。情報がこれだけだったら絶対行かない自信があるが、どこかでストーリーを知って興味をもっていたものだ。ケニアに赴任したイギリスの外交官の妻が殺されるところから物語は始まる。死後に妻の謎を夫が追ううちに、さまざまな事が暴露されるというしくみ。製薬会社と政治の癒着だけでなく支援組織もその一端であったり、アフリカが人体実験の場所として使われていることとか。

宣伝文句では恋愛物を前面に出しているし、いきなりベッドシーンがでてくるなど、なんだかとってつけたような場面に違和感を覚えたが、でも、全体的には、遠方まででかけて損したとは思わなかった。当たり前といえばそうだが、結果的に可視化される事象の背景が、誰か特定のものの意図の元に予定通りに起こっているわけではないということを、感じさせてくれる映画だった。原因があって結果があるというのは、例えば犯罪の立証の基本で、報道でも必ず「動機を追及中」となるのもその流れだと思うが、これは疑う必要がある。そんなに単純に動いているわけではないのだから。カポーティーの『冷血』では、結果的に殺人事件になる過程を、単なる因果関係では理解できないことを描いていたが、今日の映画もそれを思い出した。細部ではあるが、そういうセリフがあった。アフリカの現実を私は知らなさすぎるので、ここに描かれているケニアがどういうものか判断できない。ただ『ロード・オブ・ウオー』で描かれていたのと似ていたから、とても悲しいがリアルなのだろう。やるせない。これを知ってどうなるのかと思うが、知らないよりは世界の見方が多面的になるとは思った。
by kienlen | 2006-05-26 23:57 | 映画類 | Comments(0)

読みかけの本ばっかり

本日の仕事現場までは往復約5時間の運転。思いがけず早く終了したため帰路は遠回りして新緑のまぶしい山道を来る。途中の道の駅でウドの葉を買う。手打ちうどんでウドのてんぷらを食べたいと思った。でも、帰り着いた時には疲労感で体が重たい。昨夜の睡眠不足もあるけど、歳のせいだろうか。集中力のいる仕事だったのでそれも関係するかも。手打ちうどんに取り掛かる元気がなくソファに横たわった。横になることと本はセットだが、今読みかけのは雑誌を除いて主には新書で、斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』と仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠-アイロニカルな批判宣言』。どっちも著者が好きで買ったもの。どっちも疲労で倒れそうな状態とマッチしないので新しい新書を開く。すごく話題になっているらしいので買ってみたもので梅田望夫『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』。判断基準の第一が直感という自分は、最初のページで引きつけられた。けど、数ページ読んで朦朧としてきたので今日は諦めるが、他を置いてまずはこれを読むことにしよう。

話題の本といえば『国家の品格』がまだ売れているようだし、雑誌でもよく取り上げられているが、自分は読んでない。不満ばかり言うのは不本意なので買いたくはない。友達の誰かが買ったら借りようと思っているが、なぜか誰も買わない。皆が同じことを企んでいるような気もする。この間読み終えたのは、橋本治『乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない』というもの。橋本治を知ったのは『桃尻娘』というよりは編み物から。昔、編み物をしながら読書する姿を雑誌で見て真似たものだ。編み込みや模様編みは無理でもメリヤス編みならできることが分かった。それでこの本。同じ集英社新書の『上司は思いつきでものを言う』が面白かったので読もうと思った。つまりは、戦国時代の乱世に似ている現代を、自分のペースで淡々と生きることの勧め、などという単純でおこがましい処世訓であるはずはないが、自分なりに共感できるところは多々あり。驚いたのは、パソコンを使わず手書きしているというところ。中野翠も新聞にそう書いていた。信じがたいけど嘘をつく理由もないだろうし。そういうことを考えながら『ウェブ進化論』にかかることにする。
by kienlen | 2006-05-25 20:20 | 読み物類 | Comments(0)

ついでに「脱いだ靴をそろえる運動」について

あいさつ運動の出動については①無断で休んで、もしも何らかのリアクションがあったら面白いから事実上強制の根拠を聞く→今までの経験から推測すると可能性は限りなくゼロ。そんなに大切な活動であればサボった人に自信をもって文句を言えばいいのに言われたためしがない。とはいえ、影の声は知らないが。②このブログに記録するためだけに出動してみる→気絶はしないと思われるので勇気がいるが、試す価値があるかどうかは一考の余地あり。③出動できませんと、青少年育成担当者にあらかじめ伝える→この方が面白い反応があるかもしれないが、末端の自分にとっての直属の上司が誰か不明。幹部発信だろうが、育成会経由なので、担当者は伝達役割のみだろうから徒労か。以上、3つの選択肢が考えられる。しばらくの猶予があるから検討することにして、ここにあるもう1枚のピンクの紙について記録することにする。

「脱いだ靴をそろえよう!」がタイトル。「この運動が、子供たちの豊な心を育てます」がサブタイトル。「地区住民の皆さんへ」としての説明の要旨は以下、と言いたいが論理性なく理解不能なので、自分がゴーストライターになったと仮定してみる。脱いだ靴を揃えると非行も性的被害もなくなり、家庭は健全、地区の諸活動もなごやかになる…。毎年この紙が全戸配布されるので説明を求めたいと思うが連絡先がない。バンコク在住時に仕事の関係でラオスに何度も行った。ラオス語は分からないが街中にプロパガンダ(らしき)看板があって、稲穂を抱えた家族らしき人々が微笑む図柄から「一致団結明るい家庭」なのかと想像して、多分こういう国には住めないと思ったものだが、現在の日本の某地区で展開しているのは、ラオスでの想像ではなくて日本語で理解できる全体主義だ。ロボットのように脱いだ靴を揃えて、毎日オートマチックテラーマシンのようにあいさつする人を育成することが「青少年がたくましく未来に向かって前進できるように努力する(文面より抜粋)」ことなのか。靴を揃えるのも挨拶も、もちろん気持ちがいい。でも、それと非行が結びつくという短絡的な発想を流布させることで思考停止をうながして良しとするのは、もっと罪ではないだろうか。
by kienlen | 2006-05-25 01:22 | 地域 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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