カテゴリ:言葉( 70 )

日本の高校に通っているタイ人と話していたら、何かの折に日本語の「よろしくお願いします」に相当するタイ語を発した。それでずっとくすぶっていた疑問を思い出した。いつも尋ねてみようと思って忘れているもの。そういえば私の場合は夫がタイ人なのでタイ語の疑問は彼に聞いてもいいのだが、あまりに会話がないので彼がタイ人であることも忘れそうになる。今朝も気付くと家にいたので「いつからいるの?」と聞いたら「ずっといる」と答えていた。たまに交わす会話は会話になっていない。「ねえ、そのタイ語、普段使う?」と高校生に尋ねると、彼女はためらわずに「使わないよお」と言う。「今まで使ったことはあるの?」と聞くと、こっちはしばらく考えてから「ない」。彼女は高校1年までタイにいたから、普通に使う言葉ならとっくに使っているはず。私にしても、タイで7年働いていたから、日本語における「よろしくお願いします」の地位を占めるような言葉なら、ビジネスの上でも使わないわけがないが、1度も使ったことがない。「でもこれが『よろしくお願いします』って意味だってことは知ってます」と高校生。それは私も同じなんですが、一体どういう状況下で使うかが分からないのだ。

それで状況設定してみた。「ほら、日本の高校に転校して自己紹介する時、言う?」「えーと、名前言って、それから…言わない」「じゃあ、アルバイトが決まってみんなの前で挨拶する時は?」「えーと、使わない」「よね?」。なんで私がこんな疑問を持ったかというと、日本語ができたり日本に縁のあるタイ人達が集うネット掲示板に、やたらにこれが出てくるのだ。ちょうど日本人が文末に「よろしくお願いします」と添えるように。それがすごく違和感なのである。でも言葉ってこうして外国語の影響を受けながら変化していくものだとは思う。日本語だって英語の翻訳調が違和感なくなっていることだし。この高校生だって、日本に慣れるに従ってタイ語の方も使うようになるかもしれない。で、もうひとつ思い出したのが、日本語の「がんばってね」。これを、知り合いの在日のタイ人が日本語の説明をつけて教えてくれた時も驚いた。タイで聞いたことないから「タイでも言うの」と聞くと「言うよ、言うよ」と言うから、私の無知なのだと思って、その時は夫に聞いたら、考え込んだ後で「あんまり聞かない」と曖昧な返事で役立たず。これじゃあ、自分が言わないのか一般に言わないのか不明。しかしいずれにしろ、彼女以外のタイ人から別れ際の挨拶代わりにタイ語で「がんばってね」と言われたことは1度もない。言葉の変化を目の当たりにするのは面白い。こういうのを集めてまとめたら面白いんじゃないか、と思うのは私だけか。
by kienlen | 2007-12-07 14:48 | 言葉 | Comments(0)
また上京。今日はすごくあせった。偶然友達も上京だったから、せっかくなんで東京駅付近で会おうかってことになって、ビールを1杯飲んだ。彼女は新幹線で私は半額のバスだから、そっから別々。なにしろ東京はいちいち時間がかかる。チケット買うのも電車に乗るまでも。少しずつまごまごしていて、それでバスに間に合いそうになくなってしまった。3分待ってくれればと思って予約センターに電話を入れてみるが営業時間外。とにかく最大限の努力してみることにしたが、新宿駅から出るのに階段に人がいっぱいでちっとも進まない。ここまで混むなんて想定外だった。バスチケットを無駄にした上に新幹線ってことになったらひどい出費になってしまう。あせる。夜だからどっちの方向に行けばいいのかも分からず、献血の旗を振っているお兄さんに聞いたら、ちょうど的確に教えてくれて、階段駆け上ってぶっ倒れるんじゃないかと思う勢いで走って、乗ったとたんにバスが出た。こんなにあせったのは珍しい。半分くらいは諦めていたが良かった。

今日の上京の目的は単に公開シンポジウムを聴きに行っただけ。「複数言語と文化の交叉点-国際結婚家族の現在と未来-」というもの。この分野の新しい学会でもできるんなら面白そうだな、と思った。発表者は3人で司会が1人の4人の学者のうち、2人の本は読んだことがある。国際結婚に関する学術的な研究ってあんまりないと思っていたけど、やはりマイナーらしい。でも、今日のを聞いていて、それも無理ないなって気がした。バイリンガリズム、心理学、福祉、そして文化人類学といった専門をもつ人達が、国際家族とか国際児等の研究成果の一端を発表だったのだが、バイリンガルに関しては、親が異なる言語を使えば子供がバイリンガルに自然になるなんてことはあり得ないってことは当然すぎて、ちょっと退屈だった。次は文化的アイデンティティだったけど、私自身が「文化」とか「アイデンティティ」というのが苦手でよく分かってないので、これもちょっと退屈。興味深かったのは、ソーシャルワーカーの体験を持つ先生のお話しで、異文化間ソーシャルワークの必要性を訴えるものだったが、この言葉を知っただけでも意義があった。自分が日頃感じていることがこの言葉でかなり解けるように思う。そういえば自分も国際結婚の当事者であるし…なのだが、経済的にも知的にもレベルの高い家族とウチなんて違うしなあ、って感じ。短い時間なので発表する方も省略する部分が多くて苦しいとは思うけど、現場の人が「学者の話しは…」って言いたくなっちゃったりする気持ちがちょっと分かったりして…。こういう学際的研究だと、この程度だったらジャーナリズムでいいじゃん、とか思ったりして…。とりあえず今日は記録のみにして…。
by kienlen | 2007-11-10 23:21 | 言葉 | Comments(0)
乗り物の上で過ごす時間が長い。今日は自転車に約1時間半、電車に2時間弱。じっと座っているよりは健康的であるが、気付くと遅い時間になっている。明日は事前準備必須の仕事があるのでこれから取り掛かる。うう、眠くなっている…。ガソリン代はますます高騰なので明日も電車にしよう。遠方ばかりなので生産性は極めて低く経費ばかりかかるが、移動は多分精神衛生上はよろしいような気がする。毎日ちょっとした小旅行気分だ。でもここ2日程はタイ語の勉強に割と長時間を割いていたので、頭の中にタイ語の文字が舞っている。特に気になっているのがให้=ハイというシロモノだ。動詞として使う時は「あげる」という意味があるが、多彩に活躍する語で使役の役割も果たす。つまり「ナニガシにナニナニさせる」という場合にให้・ナニガシ・ナニナニという並びになるわけだ。日本語は単語の間に助詞というやっかいなものが入るけど、タイ語はそういう面倒なものは少ない代わりに語順で融通はきかない。

タイ語と日本語に共通する点といえば目上と目下という人間関係があって、それが言語表現上に強い影響を及ぼすということで、もっと中立的な言葉の方がいいなあと思ったりもするのだが、このให้の感覚は味わい深いように感じる。「ナニナニさせる」と言うと日本語的には目上の人が目下に向かってやらせるものであって、ウチワ意識から外部に向かって言う以外の一般会話で「社長に電話させました」はしっくりこない。なんでかな、って考えたら、日本語というのは、「してもらう」「していただく」「お願いする」という、自分が一歩引いた上で自分から相手に向かう方向性が自然であるようだ。でもタイ語だと「させる」がニュートラルな言葉として作用して、ナニガシが上司だろうが社会的地位の高い人だろうが、ハイ(日本風に言えば「させる」)でいい。すると、逆に困るのが「お願いします」的な表現。これはタイ語に馴染まないようで、在日タイ人達は日本語の「お願い」を便利な言葉としてそのまんま多用している。「お願いเขา=カオ(あの人)」ってタイ人が言えば「あの人に頼む」という意味。外国人が増えると新しい言葉も増えるというか外国語が乱れるというか。外国の言葉を知るって思考の流れの違いを感じることでもあり、本当に楽しいことだ。
by kienlen | 2007-10-31 23:48 | 言葉 | Comments(0)

言語能力チェック欄の謎

今日は雑用をいろいろ片付けないとならない。友達がさおり織りの作品展を開催するので、各マスコミ、ミニコミの情報欄掲載を依頼する。それから銀行口座をチェックして振込みのないことを確認した時点で、毎度毎度ギャラの振込みが遅れる会社に催促の電話をする。私みたいにあんまり催促しない者は毎度毎度後回しになっているらしいが、ここまで収入低迷が著しいとそうそう呑気になっていられない。それから出身校に卒業証明書の発行を依頼する。人材募集に1件応募してみることにした。年齢制限がないからって理由は消極的に過ぎるか。今時の標準なんだろうか、ネットでエントリーしないと応募できないしくみになっていて、この第一段階を踏んで初めて応募書類を送付できるというわけだ。エントリーシートだけでハネられるのであれば卒業証明書は無駄になる、どうしよう…。世の中の移り変わりについていけない。それにしてもエントリーシートに記入できる欄がほとんどない、ということは、ほとんど無理ということだ。それといつも困るのが語学力の自己申告欄。

今回の選択肢は「日常会話レベル」「ビジネスレベル」「ネイティブレベル」の3段階。日常会話レベルはよく使われるし私だって「まあ、日常会話は特に不自由しませんが」などと言ってしまうこともあるが本当のところよく分かってない。やはりこういうのもちゃんとこの分野の勉強をしている人にとっては言葉の定義として常識なんだろうか。本のタイトルにも日常会話○○語とかよくあるもんなあ。どっか行くとか何か食べるとか程度を日常会話とするか、日常的に政治論議をしている人の日常会話って政治用語バリバリだったりするんだろうかとか、まあここまでいかなくてもスラング頻出会話を日常会話としたら、この分野を知らない私なんかもうダメ。この間も若い子にタイの若者言葉を試されて分からなくて笑われた。さらに分からないのがビジネスレベルだ。営業の使う言葉と技術者の使う言葉は違うだろうし、法律家と流通業の人のビジネス用語も違うんだろう。ビジネス用語は詳しくてもフツウの日常会話はできないって、ネイティブ言語でもありそうな気もするし。なんて考えているとキリがなくて雑用を消化できなくなる。
by kienlen | 2007-10-30 10:44 | 言葉 | Comments(0)
在宅でいろいろやることがあるから、ブログを書いている時間はないはずだったが、新聞に目を通していてどうしても気になる小さな記事があった。「小学校英語成績つけず-中教審部会が素案」というたった一段の小さな見出し。それによると、2011年以降に導入される小学校高学年での、週1時間程度の英語必修化に際して、成績はつけず、一般教科と別扱いするという素案をまとめたそうだ。教育の機会均等の観点から国が共通に指導する内容を示して、「心のノート」のような全国共通の教材を使って、学級担任が指導する、のだそうだ。英語というか「英語活動」ってなってる。短い記事で全貌が分かるはずないけど、どう考えてもこのような「英語活動」の目的を想像することは私の力ではできない。すると、ああいつものように省庁間やら何やらの政治的駆け引きの結果の折衷がこれか、とネガティブな思考になってしまう。だって、ホントに分からない。

週に1時間、もしかしたら、学生時代の最も不得意科目が英語だったかもしれない担任の先生が英語活動を指導する、ということは、子供達の英語力の向上が目的でないことは明らか。すると何だろう。子供の時に外国語を学ばせるとすれば、それは異国にいてのサバイバル以外では発音の正確さではないだろうか。私にはそれしか浮かばない。私は外国語のお勉強は好きであるが、自分の母語と比べて違いを楽しむなんてのは大人の楽しみであって、小学生の楽しみになるようには思えない。ただ発音に関しては大人が理屈で舌の位置がどうのこうのってやるよりも、子供が覚える方が合理的であるように思う。しかしここで教える先生がたまたま英語の発音が専門であれば指導は可能かもしれないが、いかんせん担任である。ほとんどは英語の発音の素人でしょ、その人の発音を学んでしまっていいのだろうか。もうひとつ自分だったら考えるのは、文化の多様性を知ることの重要さであり、これを外国語から入るという方法はあるだろう。でもだったら何で英語なのかは大いに疑問で、外国語=英語という発想になる逆効果も期待できちゃう怖れも感じる。ああ、分からない。大方は、成績つけることで英語コンプレックスを生んじゃあいけないとか、既存の先生の面子つぶしちゃあいけないとか、多方面に配慮した苦肉の折衷案なんだろうけど、こうして本来の目的はどっかに吹っ飛んで怪物が生まれるのである。怪物に踏みつけられるのは誰か、である。この忙しい時にこんな記事、読むんじゃなかった。
by kienlen | 2007-09-11 12:10 | 言葉 | Comments(0)
今日はタイ語のタイピングを少しした。出来上がりを夫に見てもらったら笑われた。たくさん間違っていたからで、しかし当方としては自分で見直して時間取るよりも一括ネイティブチェックの方が合理的なのである。この間、翻訳をやっているタイ人と話している時に「エクセルとタイ語は合いません」と言っていた。エクセルは日本語だって嫌いな私。でも、タイ語が特に問題あるのかと思ったら、つまり大問題だった。タイ語というのは子音の4方向に母音が付く。すなわち上下左右。いくらなんでも上下左右全部いっぺんに付くことはないけど、下を除く3方に付くことはある。その上、上部に声調記号が付いた時には雪だるまみたいなもんである。となると、機械ものの場合、それを見越したスペースを一字分として認識するということだろう。だから核になる文字、つまり子音のスペースはうんと小さくなってしまう。するとエクセルのように文字の大きさが自由にならないものはやっかいなことになる、というわけだ。漢字も面倒だが発音に忠実な表記方法というのもやっかいなものなんだな。

例えば私がここで使っている名前はkienlenと表示しているが、これはタイ語のเขียนเล่นのつもり。タイ語→アルファベット表記する時のルールに従うと、有気音はhを付けるので本当はkhienlenが正しいんだろうけど、まあおいておいて、意味するところは「遊び書き」である。เล่น=レンが「遊ぶ」の意味で、これは合成語を作るのに便利。กินเล่น=ギンレンだと、遊び食べ。ちゃんとした食事時間じゃないのにおやつみたいにつまんで何か食べてる、って感じ。で、こう書いて気付くのはタイ語のフォントサイズが小さいってことだ。ミミズの柔軟体操みたいな文字が子音でその上についているのが母音と声調記号。これは上だけだからシンプルだが、潜在的には四方+上方にもう一文字分のスペースが要るということ。だからカーソルの動きがひどく小刻みなのである。だって、子音を入れて足踏みして上に母音入れて、さらに足踏みしてその上に声調記号となれば、本当なら3歩進む間に1歩しか進まない。もっとも日本語をローマ字入力しているよりはマシか。どっちにしても面白いんだけど。
by kienlen | 2007-05-28 23:05 | 言葉 | Comments(0)
裁判の傍聴に行った。傍聴記を2冊続けて読んで、気持ち的には影響されてしまって、入室の状況から観察モードになる。まず目に入ったのが知り合いの警察官。ご挨拶。それから知り合いの元記者。これもご挨拶して隣にくっついて座ろうかと思ったけど遠慮して1個あける。その後に次々と入室者があるが、記者っぽい人が多い。記者っぽいと感じるのは、なんとなく騒がしいのである。静謐感に欠ける。移動が多いしそわそわしているし、そして途中でウトウトしたりもする。なんて…深みに欠ける観察はともかく、この事件の判決がどうなるかは興味があって都合がつく限り通っている。3件の放火事件で、そのうちの1件では妊娠中だった若い女性が死亡しているのだが、被告は全面否認。小火の舞台がタイ人経営のスナックであり、被告が韓国人なので通訳も入る、という私的には、それだけで見所たっぷりなのだが、人間ドラマとしての傍聴記を書けるようなものではなくて、今日の内容も、防犯カメラを解析した警察官の証人尋問だった。防犯ビデオなんてやたらに設置すると煩雑になって人間ドラマからどんどん遠ざかりそうと感じた程度で特に盛り上がりはなし。

そこで通訳に注目することにした。というのは、通訳席に2人着いたことからして、傍聴経験の乏しい私には珍しい。ベテランが研修生を連れて来たのかと思ったら、そうじゃなくて1日がかりなので2人で分担するようにとの裁判所の判断だったのだった。まずベテラン風の女性が担当。検事の尋問は早口でフレーズが長いし、すごく大変そうで、途中で集中力が続かないと休憩になる。次、交替ってところで新通訳が資料を請求。テキパキと同時通訳を始め、ついでに場を仕切り始めた。弁護士が長々話し続けると「途中で切って。私の言葉を聞いてからにして」と注文。正確さを期するためには必要な要望だと思うが、なかなかここまで堂々と命令口調で言い切れる人はいないと思う。次に彼女は検事に向かっても「早口ですから」「私の言葉を聞いてから」と注文。ところが、こう言われて「はい」と素直に従った弁護士とも、ペースを落としたり言い換えしたりした証人とも、検事は違った。彼は通訳の注文に無言という反応を示し、その直後からますます早口で、しかも声を落として話し始めたのだった。さすがの強気の通訳も、それ以上は言わなかった。いっそもう一押ししていたら、どうなったか。いきなり盛り上がったかも。本日も被告の出番はなし。明日は被告人質問があるというのでまた傍聴のつもり。あの通訳さんのパフォーマンスをまた見たいけど、担当はどっちだろうか。北島トロ風の表現だと「華があった」な。
by kienlen | 2007-05-09 22:45 | 言葉 | Comments(0)
今日は午後に面白い仕事が入っていた。テレビ局に勤める友人から打診があったもので「番組のタイ語の部分を翻訳してほしい」というもの。内容をきくと、タイの女性受刑者と日本人女性がボクシングで闘って、受刑者が勝つと刑期を軽くするというもので、そういえば新聞にも載っていたし、ネットでも見たような気がする。多分ちょっとだけだとは思うが、こういう仕事がとっても難しいことは経験上想像がつく。まずは録音状態。ざわざわした雰囲気の中で誰かが話しているのを聞き取るのは母語でも簡単じゃない。それから、今回のように編集してあるものが送られてくる場合は、断片的な場面である可能性が高く、文脈が分からないと理解できない不安がある。つまりその程度の語学力って意味もあるが。それと面と向かって話す場合は、相手が外国人用の表現をするに違いないことは、自分が外国人と日本語を話す時にはなるべく分かりやすく話すことを考えても予想できる。でもテレビが表現に気を遣ってくれるわけない。タイ人が日本のテレビ番組を見ていて説明を求めてくることはたまにあるが、テレビの話し言葉ってやっかいなのだと、よく感じている。

やっぱタイ人の方が間違いない。こういう時は身近に該当者がいるのは便利で、夫に行ってもらうことにした。しかし私も暇だし様子見たいから付いて行った。出だしから音悪い。彼も何度か聞きなおしたり、言葉を落として後から気付いたりしている。私がいなければ直接日本語でやるところだし「口だしするな」と言われていたが、結局彼が言い直し→私が日本語で記者に伝える、という方法になった。オフィシャルな場じゃないから楽なものだ。しかし、ラジオだとテレビより分かりやすいのはなんでかな、と思って気付いた。言葉だけで理解させるのと、表情や周囲の状況が見えたりパフォーマンスもあり得るのとでは違うってことに。映像があると言葉足らずでもいいんだ、なんて当然だが。結局たった30分くらいしかかからなかった。これから面白くなりそう、ってところでおしまい。さらにこれを編集して放映されるのは数分だけってことだ。「こういう仕事面白い」と夫。タイの番組を全部訳すなんてのがこないもんだろうか。
by kienlen | 2007-04-06 18:22 | 言葉 | Comments(0)
いつの間にか4月になっていた。自宅の庭のアンズの蕾が膨らみ、よその庭の梅は満開になっている。今日も昨日に続いてずっと家にいた。もっとも飲食だけは外出している。さすがに今日はもう睡眠を必要としなくて主に『タイ語の基礎』という本を見たり、書いたりしていた。タイ語は、旅行会話や実用会話はたくさん出ていて、小さな書店でも今は見かけるくらいになったが、文法の本はそんなにないように思う。これはだから結構貴重で、文法的にちゃんと解説してくれているので面白い。まず最初は発音と文字の解説がある。次から文法。タイ語文法の特徴としてあがっているのは次だ。語形変化がないこと。だから要素と要素の結びつきがひじょうに大事になること。そして「コンテクストや一般的知識に依存する度合いの高い言語です」とある。語形の変化がないということは、現在形とか過去形とか未来形という変化がないから、覚えるのにとってもありがたい言葉だ。日本語なんで現在形を覚えたところで、会話における実用性という意味では使い道があんまりない。その点タイ語は単語を1個覚えると活躍の場が広い。

これはとっつきやすい。だから大人になってから覚えるのにはいいですよ、と人に勧めている。ただし、良い事ばかりじゃないと思うのは、状況を知らないと分かりにくいのである。この間の裁判の傍聴でもそれを感じる場面があった。タイ人の証人が「จับ จับ(ジャップ ジャップ)という声が聞こえた」と言った。自分だったらどう訳すかなと思いながらずっと傍聴していたから、通訳が「捕まえた 捕まえた」と訳した時に、ホホウと思った。私は心の中で「捕まえて 捕まえて」とばかり理解していたのだ。だから完了だったのには違和感を抱いたが、しかし、そういえば間違いではないのかも、と思うようになった。私が誤解か。で、自分はなぜ完了だと思ったのだろうか、と考えた。ひとつには、もし行為を終えていたら完了や過去を示す語をつけるのが自然じゃないかと思ったからだが、しかしこれだと逆に考えると依頼なら依頼の語をつけてもいいのについてない。ううむ、分からない。あと、私の判断において決定的なのは、それまでの流れである。ここでは依頼だろうな、と直感的に思ってしまったわけだ。なんだか気になって、夫に聞いてみた。「2回繰り返すのは頼んでいるから」と言う。それは知らなかった、本当かな、疑わしい。この文法書が、繰り返しの用法としてこれを解説してくれているかというと、ざっと見た限りでは見当たらない。過去現在未来についても簡単に済ませている。この先が知りたい。
by kienlen | 2007-04-01 22:53 | 言葉 | Comments(0)
パソコンに向かったまま仕事にならず、お気に入りに入っているいくつかのHPを覗いていた。その中にタイ在住の英語圏の外国人達が共同で開設しているフォーラムがあって、面白いのでたまに読んでいる。特に目的もなく大変な情報量の中を彷徨っていたら、ひじょうに興味深い質問があった。เกรงใจ=グレンジャイ=「遠慮する」ってどういう意味か?というもの。日本語圏の人にとってはこの言葉はスンナリ理解できるのではないかと思う。ただしちょっと使い方は違うかも。というのは、タイ語だと、自分自身の行為に対してよく使っているように感じられる。日本語だったら相手に対して「遠慮しないでね」とは言うけど「遠慮しちゃいます、私」とは、まあ言ってもいいけど、例えば目上の人に対してだったりいい大人などは、あまり言わないんじゃないだろうか。でも「遠慮」という概念自体を改めて振り返ったことがなかった私は、このタイ語は日常的に使っている。これ食べて食べて、と勧められたらเกรงใจと一応言って、さらに勧められたらいただきます、とか、あとは「遠慮しないではっきり言って」とか、いろいろな場面で。

ところがこの英語圏の方の質問に対しての答えは「これは私達西洋人にとっては難しい考え方で、ぴったりの単語はありません」というもの。辞書的な解説をしたのもあれば、状況設定して教えているのもあるが、結構苦戦しているようで楽しい。状況としては「アパートの廊下を女の子2人が走り回ってノックもせずに部屋に入って来たとする。この子達は『無遠慮な子』である」。ううむ、なる程ね。でもなんか苦し紛れの気もする。次はこういうの。「隣人からパーティーの招待を受けているがその日は行きたくない。そしたら妻が『断ったら無遠慮である』と言った。活きたサンプルがあった」みたいなもの。多分この妻はタイ人だろう。そして私も混乱してきた。改めて考えると、もしや、自分が日本語的に使っているこの単語の使い方やら考え方は異なるのかもしれない。今、それを調べている時間がないが、こうして別の言語圏の方の見方を知るのも面白いことだ。しかし、英語だとやはりその場に合った言い回しになるんだろうか。その点、タイ語と日本語の遠慮概念は親戚くらいの近さはあると思う。
by kienlen | 2007-02-24 21:07 | 言葉 | Comments(2)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


by kienlen
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