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昨夜は飲み会だった。近くに、ブラジル出身の、もう長い付き合いの友人がいた。外国人に関わる活動の中ではちょくちょく会う機会があるが、彼女は大変な忙しさで久しくゆっくり話してない。そういえば子どもも大きくなっているんだろうから尋ねたら「今年受験生だよ」と言われた。ウチは高3だからあちらは中3。ウチの場合は「受験生」なんて言葉をとうてい使えたもんではないが。「ポルトガル語できるの?」と聞いてみた。彼女は日本人との結婚で日本に来た日系3世。当初は日本語はそんなにできなかったそうだ。でも「おばあちゃんが日本語で話すのを聞いていたせいか」と自分で言うくらい、じきに上達した。そして確か子どもが小さい時はポルトガル語の公文をさせているとか言っていた。その時は私も自然なバイリンガルについてもっと関心があったから「いいなあ、ポルトガル語の公文があって」と思って羨ましかった。タイ語があったらお金払っていたかもしれない、と思うくらいの気持ちがあったのだ。

彼女は首を横にふって苦笑いした。「できないよ」と言いながら。この場合の「できない」がどの程度のできなさを意味するかは分らない。期待以下という意味かもしれないし、全然できないのかもしれない。しかし、あの環境でバイリンガルになっていたとしたら私は考え方を変えなければならないなと思う。つまり家族は彼女を除いて日本人のみで、今は変化しているとはいえかつての典型的な農村地帯に家がある。ここまではまあ良しとしても、唯一のポルトガル語話者である母親が仕事をしていて、子どもに長い時間関わっていられるわけじゃない。その仕事が通訳だったりするのは皮肉であるが。今日もこれから、小学4年で日本に来たばかりのタイの子がいる学校に行く。このくらいの年齢で日本に来て膨大な漢字を覚えなければならないタイの子を見ていると、ひどく考えてしまう。自分の意思で行ったり来たりじゃないので強い動機がない。そして時間はある。その子の力にもよると思うけど、来たばかりの頃は楽しそうにタイの話をタイ語で説明してくれたり、教科書にタイ語で書き込みをしていた子も、1年くらいすると、書くのはもちろん、タイ語を読むことが面倒そうになって「読めない」とか「読めるけど意味わかんない」と言い出す。当然友達と話すような日本語はほとんど問題なくなる。しかしその程度の日本語って、大人になってから必要に迫られてやったらなんとかなる程度のものでしかないような気がしてしょうがない。
by kienlen | 2009-07-17 08:43 | 言葉 | Comments(2)
昨日は細かい事がいろいろあって外周りしているうちに終わった。今日は余裕。タイ人の子の支援ということで昨年から通っている小学校へ行った。週に1度だけ、しかも1時間弱。もう1人が数時間みているから、私が何をしたらいいのかは手探りなのだが、今日は教室に入ったら同じクラスの日本人の女の子が私のところに来て「これ訳して下さい」と言う。渡された粗末な冊子を見たら、英語とタイ語が書いてあった。タイ人の子に聞くと「タイの英語の教科書」だと言う。よく見ると教科書というかワークブックみたい。タイの学校で小学5年にやる教科書を受け取ったきり日本に来たので、その教科書を日本に持参した。たまたま「英語ができる」と自慢気なクラスの友達がいるから、それを持ってきて見せたのだが、問題部分がタイ語で意味不明なので訳して欲しいということだった。訳した後で日本人の子が問題に挑戦するというわけだった。それで、今日の授業はそれにしようとひらめいた。その友達のために、タイ語の問題文を日本語に訳して書くというのは勉強の動機としても強いのではないだろうか。

来日から1年でタイ語力も弱くなっていると思われるので、それも試してみたかった。タイ語部分を読ませると、かなりたどたどしい。しょうがなく私が読んでやる部分もある。それから意味を聞くと、一応分るけど、かといって日本語にするには複雑すぎる。結局タイ語の学習言語が小学校4年でストップしているわけだから、タイ語の「動詞」「名詞」という語彙も読むことは読むけど「意味分らない」という。そうかあ、品詞名も分らないのか。何が分って何が分らないのかもいちいち確認しないと分らない。小学生相手に理屈もなと思って「動詞ってのは行くとか食べるとか来るとか座るとか書くとか読む」「名詞は机とか時計とかペンとか…」とタイ語で説明すると、ふんふんとまじめに聞いているから「じゃ、水は?」と聞くと即座に「名詞」と答える。分ったことにしとこ。ただ、こういう遊びというか試みは面白いとは思った。日本人の子にしたら、外国人の子がどういう感じで日本語によるテスト問題を見ているかイメージできるだろうし、外国人の子にしたら、自分の方が余計に言語を知っているという自信を持てるだろうし。そういうことも言ったらいつもより真剣に、タイ語の問題文の上に日本語文を書いていた。訳すことはとてもじゃないがムリで、私の言うなりではあるが。「じゃ、〇ちゃんに解いてもらってね。来週見てあげるから」と言ったら表紙に「〇ちゃん、がんば」と大書きしていた。かわいいもんである。そして、どういう将来が待っているのか楽しみ。
by kienlen | 2009-06-17 16:14 | 言葉 | Comments(6)
日本語教室をボランティアで長年運営している友人から、人手が足りないから手伝ってくれないかという打診があった。特に予定のない土曜日の午後。日本語検定1級と2級を受ける中国人たちに本気で指導するため、タイ人の女の子を見る人がいないという。優秀な人に教える方が教えがいあるのは分かるけどね、と思いつつお手伝いに行った。久々に会ったその子はずいぶんと大人びていた。タイの子を見ているとウチの子はタイ人に似ているなあと思う。雰囲気が似ていて一瞬間違えそうになった。進級して新学期が始まってクラスも担任も新しくなった。日本語で会話がかなりできるようになっている。1年の進歩は大きいが、やはり日本語の壁は厚い。漢字を一体どうしたらいいんだろう。中学までに追いつくのはムリじゃないか、中学に行ったら勉強も雰囲気も段違いに厳しくなるし、担任がかかわっている余裕もないだろうし…。先が思いやられる。しかも問題は会話の方は上達するに決まっているし、発音だって小学生で来ていれば正確になるに違いないから、表面上は日本人並と誤解されやしないかということだ。思わず、発音はたどたどしくても、内容が豊富の方がマシじゃないかと思ったりもする。

算数の計算はできても文章題になると全くお手上げ。書かれた日本語が分からないというだけだから、説明してあげると分かるのだが、しかしこういう場合だってテストになったら算数ができないってことになるわけだ。友人は「九九ができない」と心配して日本語の語呂合わせを指導していたようだが、私はそんな時間は無駄じゃないかと言った。結果的に九九ができればいいのであって日本語の語呂で覚える必要はないだろうから。かといってタイ語の方が覚えやすいかというと半端なのである。難しい。もちろん国語の教科書など全く分からない。外国人になったつもりで読んでみると、日本の子ならあえて習わなくても自然に身についている言い回しとか、前後から想像できる言い回しがいちいち分からない。で、全部分からない。中国人だったら、よく漢字の違いがあるから混乱するみたいに言われるけど、やはり圧倒的に有利だろうな。少なくとも視覚で意味を把握する言語だし、辞書だって引けるし。こういうのを見ていると、もともと優秀な子とかひじょうに教育熱心でその余裕もある家庭以外の子が第二言語習得にエネルギーを費やすよりひとつの言語で教育を受けて、大人になってから必要に応じて第二でも第三でも習得する方が合理的に思えてならない。そもそもモチベーションが違う。これ覚えないと仕事クビとなったら必死で覚えるのだ。なんだか時間を無駄にしているような申し訳なさを、私が感じる必要もないのに感じてしまった土曜日の午後だった。私の心配が無駄であるのが一番いいけど。
by kienlen | 2009-05-09 18:33 | 言葉 | Comments(0)
検索にどういうキーワードを使ってこのようなブログを覗くことになってしまったのか、ということは毎日解析される。その時にひとりとかふたりに過ぎないが回数的には時々登場するのが「タイ語 よろしく」みたいなキーワード。自分がネットの助けを借りたい時にどういうワードを使うかな、と考えて想像するに、これは「タイに行くことになってしまったが、最初の挨拶くらいはタイ語で言ってみたい。よろしくってタイ語で何て言うんだろう」という方の発想ではないだろうか。今回のタイ行きではタイ人の友人とも食事を共にする機会があった。その中の1人が日本に留学経験のある日本語が流暢な大学の先生だった。言葉についてこの人なら信用できそうだなと思って積年の疑問を尋ねてみた。「日本語を勉強しているタイ人のサイトなんかを見ていると、日本語の「よろしく」に相当する言葉を最後に書いている人が多いけど、近頃はタイ人もこんなこと言うようになったの?」という疑問だ。先生は笑って即座に「使いませんよお、アハハ」と否定する。辞書を引くと、初対面の挨拶言葉であるとか、頼みごとをする時に使うだとか解説してあって直訳できるタイ語のないことは分かるので、この先生の言葉になんだか安心した。言葉も変化するから、もう10年も20年も日本に在住しているような身の回りのタイ人に聞いても最新の情報は得られないわけだ。

とはいえ、先のことは分からないし、この先生の知らないところで変化が芽生えているかもしれない。最近気になるのは例えば旅に出る時に「よい旅を」と言われたり、朝のコーヒーを飲んだ喫茶店の店主からレジで「よい1日を」なんて言われることだ。これって英語の影響ではないんだろうか。かといって日本語で使われなかったのかという点で実証できるような自信はない。感覚的にはなんだか板についてない感があるだけ。それに私もよく「楽しんできてね」なんて子供や友達に声かけたりするが、これも日本語的なんだろうかと振り返ったりする。苦しむより楽しむ方に価値を置くのはタイ的になったせいか、いやいや、このくらいは昔から日本人だって言ったかな、とか、気にし始めるとやたらに気になる。しかも個人によって言葉の使い方も異なるから、簡単に一般化もできない。その大学の先生に「客観的ってタイ語で何?」と聞いたら、しばらく考えた後にぴったりの言葉を教えてくれた。私が辞書を引いた限りでは、どうもピンとくるのがなく、別の元留学生のタイ人に聞いても分からなかったものだから、喜んでその別のタイ人に報告したら「そんな言葉どこで使うの」と笑われた。夫に聞いても同じ反応。これはタイ語と日本語の言葉使いによるものなのか、それとも個人個人の言葉の選択によるものなのか分からないが、いずれにしろ生の言葉は面白いなと思った。
by kienlen | 2009-04-10 19:34 | 言葉 | Comments(2)

やさしい日本語の盲点

午前中に一件会議があった。外国籍児童生徒の支援をどうするか、みたいな定例会で市教委の主催で年に数回催される。今年度は多分最後。議案はいくつかあったが、就学についての情報を含む多言語の生活ガイドを外国人登録の窓口に来た人全員に希望の有無を問わずに配布することで、外国籍の子の就学の方法を周知させる、というアイデアが発表された。外国籍の子には就学の義務はなく自動的に通知がいくわけでないのはいかがなものか、という問題提起に対しての答えだった。その時に、当市は各国ごとの人数は多くないが50か国もの人が住んでいるという点が特徴としてあがった。一番多いのが中国籍、次が韓国・朝鮮籍、次がフィリピン、次がタイである。ブラジル人が少ないのが特徴でもある。そんなわけで文書等をいちいち多言語訳するわけにもいかないし、やさしい日本語で表現するのが望ましいみたいな話が専門の先生から出た。私はこれは賛成だったから付け加えて「よく漢字にルビをふれば外国人に理解しやすいと思っている人がいるみたいですが、あれでやさしくなるわけではないです、構文も単純にしないと分かりません」と発言した。

専門の先生もうなずいていた。司会が「この点、Sさんはどう思いますか」と指名した。Sさんは中国人で中国人の日本語支援をしている人。ひじょうにまじめに「文書はひらがながなるべくない方がいいです。なるべく漢字にして下さい。そうすれば分かります」と発言した。やさしい日本語を提言した先生は中国で教えていたこともある人だから苦笑い。「そういえば中国の人には漢字の方がいいですよね、アハハ」である。私なんかも自分の発言がおかしく感じてしまってアハハであった。中国や台湾の人にしたらひらがなの方が難しいのは当然じゃないか。外国人っていったっていろいろで一緒くたにできませんよ、なんて日頃は言っているくせにこんな当然のことに迂闊だった。世界は多様である、なんて思いながらタイの子の支援ということで週に1度だけ行っている小学校へ。5年になるのに九九が完全になっていない。九九なんて、つまり何語だろうが暗記していればいいわけであるが、この年齢だとタイ語が確立しているというかそうじゃないというか、個人差もあるだろうけどかなり怪しい。そもそもタイ語を書こうとしないし、辞書も好まない。「九九をタイ語で覚えるのと日本語で覚えるのとどっちが覚えやすい?」と聞いてみたら「同じくらい」と返ってきた。となると日本語で記憶する方がいいように思うが…。言葉の習得については知りたいことだらけだ。子供は成長を止めて待っていてくれないし。
by kienlen | 2009-02-18 23:11 | 言葉 | Comments(2)
旅に出ていたわけでもないのに3日も休んだ。単に毎日酒でトリップしているだけのことだ。昨日も友人と「脳みそが毎日1mmずつ削られていく感じ」と話しながらますます削る行動に出ていた。飲酒会の前は遠方の勉強会に出てみた。外国由来人々の支援団体の主催するもので、発起人には知り合いが複数。で、その組織の代表である大学の先生が米国の移民教育の一端視察報告を少々と、日本の文科省の最新の方針についての解説をしてくれた。だいたい外国人政策こそ政府方針があるべき、というか、政府の方針なしに現場の対応が最もできにくいもののひとつがこれだと思うが、日本は相変わらずであるようだ、という確認はできた。それはそれで作戦と思えないことがなくもないが、国としての方針がなくて文科省が方針を出したところで、ないよりいいのかどうか知らないが、混乱は免れない。もっとも国の方針があったから混乱しないということはあり得ないけれども。それはともかく、先生の話の中で、またかあ、と思うくだりがあった。アイデンティティが揺らがないように母国の言葉、文化は失わないようにすべき、というような話である。すごくよく言われる話だ。これって言うのは簡単かもしれないが、どうやってやるんだい、と思うとすごく難しくないだろうか。私はこの言葉に傷付く、というほどのヤワではないけど、少なくとも結構悲しい気持ちにはなる。

なぜか。自分が実行できていないからだ、とも言える。ウチの子らはタイ生まれである。タイ国籍も持っている。父親はタイ人である。タイにいる時の第一言語はタイ語だった。今、タイ語は話せない。誰も教えていない。タイ文化も教えていない。と、誰かに話したらきっと「だってお母さんが日本人なんだから日本語が母語で日本文化でいいじゃない」と慰められるだろうか。あくまで「ちゃんと教えないと」と言われるだろうか。両方とも言われたことはある。ではもしタイにいたらどうだろう。タイにいて日本語も日本文化も知らないかったら「タイ生まれのタイ育ちだからいい」んだろうか。じゃあ、アメリカに移住していたらどうだ。子どもたちにとって何が母語で何が自分の文化なんだろうか。たぶんこういうことは専門家の中でも議論があることなんではないだろうか、想像だけだが。いずれにしろ自分が身をおいてない言葉とか文化は自然には身につかない。身についてないものにアイデンティティをおけと言われたら、そっちの方が苦しくないだろうか。確固たるアイデンティティなんてなくてもいいと言っては暴論なんだろうか。こんな暴論を吐けるのは自分が経験してないからとも言えるとなると、ますます分からない。親子共々知的能力が高くて、教える時間的、経済的余裕が移民のみんなにあるなんてことはないわけで、じゃあ、それを学校教育なり移住した国の責任でやれということになると、どういう移民政策を取るのかというのとモロにぶつかってくることになる。ま、そこまで論じるところまでにもいってないように感じる。
by kienlen | 2009-01-25 11:45 | 言葉 | Comments(0)

成果、聖火、聖歌…

タイの料理本でも見るかと思って夫の店で本を物色していたら「女性のための法律の手引き」というのがあった。なんか面白そうだと思って開いたら、なんとか読めそうな気がしたので持ち帰った。仕事がなくなってしまったらタイ語の本の翻訳でカネのかからない暇つぶしをしようと最近心に決めているので老後に備えた練習。寝転んで前書きを読んでいたら“คบไฟ(コップファイ)”というのがあった。何だこれは…。プロジェクトの名前として“”に入っているから造語の可能性だってあるが…。私の乏しい知識だとคบ(コップ)は「お付き合い」でไฟ(ファイ)は「火」だから火のような熱い関係だろうか。しっくりこないな…。その時は寝転んでいたから厚い辞書を引くのが面倒で夫に電話した。「コップファイって何よ」。すると「セイカ」と即答するではないか。いつもだったらよく分からない説明をするのに今回はひと言、しかも日本語!

「そうか、成果ね」と思って読み進める。なんだかしっくりこない。かといってすごくおかしい感じもしない。でもプロジェクトの名前って通常だったら比喩でインパクトのあるのを使うだろうに、成果じゃあストレートすぎないか。起き上がって辞書を引いてみた。タイ語は英語のようにテキストも辞書も豊富じゃないのが辛いところだけどタイ日に限っては、これさえあれば完璧ってのがあるから心強い。ううむ、見つからない…。そこで日タイで「成果」を引いてみる。ない。ネットでタイの公式辞書というのが公開されているから引いてみた。「縛って火をつけるために使うもの、例えば葉っぱ、ขี้กบ(キーコップ)」とある。キーコップって「カエルの糞」でしょ、タイではカエルの糞を炊きつけに使うのか…。しかしここまでくると夫はもしかして「聖火」と言いたかったのかという疑問が生じてきた。日タイで聖火を調べるが違う。もう1度タイ日を引いたらあった。前回は見落とし。「樹葉やカンナくずなどに油をしみこませて縛って棒状にしたタイマツ」とある。カエルの糞と誤解したのは「カンナくず」だった。そして本命の意味は「松明」。確認のため日タイを引くとあった。こんなに安上がりで楽しい時間つぶしってないなあ。長生きしてもいいかも。しかし夫は聖火を炊き付け用の火と思っているわけね。的確であるような気がしないでもないが。
by kienlen | 2008-07-24 10:53 | 言葉 | Comments(0)

新しい言い回し

友人が運営しているボランティアの日本語教室に行ってお手伝いした。タイから来て間もなくで、全く日本語が分からない11歳の女の子を紹介したので様子見ついで。日本語を教える先生がいるからジャマかなと思って離れていたが、さすがに全く分からないとその子が助けてというような目でこっちを見るので必要に応じて通訳や説明をしてやったり。この子が小学校に来た初日に市教委から「行ってみてくれ」という要請があったので行った。タイ人のお母さんがついてきて1日一緒にいた。次に行った時は、担任が「お母さんがついてくるのは構わないが、どうしても友達との関係が作りにくくなるからできれば間を置いてもらった方がいいように思うから伝えてくれ」と言われて話したら「ちょうど仕事が始まるのでもう来れない」という。そんな感じで3週間くらいになるのだろうか。

名前は?と聞かれると自動的に「○○□です。よろしくお願いします」と頭を下げる。お母さんがセットで教えたらしく暗記していて必ず「よろしく…」まで入ってしまう。確かに便利な日本語だし、これを訳すのは難しいというのは、外国語に訳す必要のある人なら経験している人が多いはず。でも最近、ネットで日本語のできるタイ人の書き込みを見ていると、よろしくに当たるタイ語を結構使っている。言葉としては存在するが「こんな言い方しないよね」と以前は言い合っていたし、タイでは日常生活の中で聞いたことなかったし、実用には適しないと理解していた。でもあんまりよく見かけるので自分の知識不足かと思って夫に尋ねてみたら、やはり使わないという。どこの国の言葉もどんどん変化している。日本語を学ぶタイ人も多いし、今度タイに行ったら当たり前の挨拶語になっていたりして。
by kienlen | 2008-07-19 18:12 | 言葉 | Comments(0)
来日から数日で、日本語のできないまま日本の中学に入ったタイ人の子がいる。日本語教育の先生が特別支援で専属でついているから、受け入れ態勢としては悪くないと思われる。それにしても日本語が全く分からないんじゃあ、ガイダンスからして理解不能。教育委員会の方から連絡があって、様子を見に行くことになった。校長先生と支援の先生を紹介される。支援の先生はタイ語の辞書を持っていた。「あ、その辞書、私も持ってます」と言ったら「今日は班と当番の説明をしたんですが、辞書に『班』って載っていたから言ったら分かってもらえました」と言う。「分かっていなくても分かったふりをすることはよくありますよ」と私は言った。こんな言い方しなくても「そうですか」って言っていればいいのに、正直すぎるとはこのことだ。しかしどうなんだろう。何も分からない国の何も分からない学校に入って、未知の言葉を使う先生が、単語だけ自分の言語で突然発音してくれて、それで「分かった?」というしぐさをされた場合、たいていの人はうなづいてしまうんじゃないだろうか。何が重要で何が重要でないかまでの判断はできにくいし、たとえ「分からない」というしぐさをしたところで、じゃあ、次にどうなるかというとひじょうに心もとない、ということは瞬間的に察するのではないかと思う。

自分にも経験がある。重要な事以外は適当に分かったふりをしてしまうことはあった。それでその場がまるく収まるなら、相手を立てた気にもなってしまう。つじつまが合わないと後で困ったりもするが、雑談程度ならたいしたことはない。しかしこの場合は「班」である。日本の学校における班というのは独特なものらしいことを、アメリカ人の教育学かなんかの学者がフィールドワークした本で読んだ記憶がある。何かの活動をする時にグループに分かれるのはどこでもあるだろうけど、ウチの子なんか「宿題忘れても班の責任になるんだよ」と言っているような、こんな班が世界共通とは思えないし、夫に尋ねた限りではタイで日本と同じ班はない。となると、班を伝えるのに辞書にあるその単語をもってきて、仮にその発音が通じたとしても、それは相手にとって何を意味するのだろうか。今の中学の班活動が何かを私は正確には知らないから、給食当番の班とか、掃除の班とか、活動ごとのグループを指すのであれば特に支障はないだろうけど、先生が「班」と言う時に含める意味と、日本の学校の班を知らない人が理解する意味が異なる可能性は大きい。つまり大事なことは、ある単語を伝えたつもりになった場合、それがどう解釈されるかには慎重でなくてはならないということだと思う。
by kienlen | 2008-04-07 16:39 | 言葉 | Comments(0)
正味1時間足らずの仕事のためにランチを挟んだ待ち時間合計約3時間。でもこういう時間は好きだ。軟禁状態みたいなものだから、目移りできずに本を読むしかなくて集中できる。それを楽しみに、気分で選べるように数冊持参するが、今日は「月刊言語」という雑誌を読んだ。特集「日本語のスタイル」というのに興味を持って買ったもの。もっともこの雑誌は面白そうな特集を組むので見つけると買っている。言語の本であるからエッセイ等も言葉遊びあり、マジメありで飛ばさないで読んでしまうので時間がかかる。どれも面白かった。特集の中に「依頼と謝罪における働きかけのスタイル」というのがあった。著者は熊谷智子さんという方。専門外なので初めてみる「言語行動研究」という分野の方。面白そうな分野である。日本人はよく謝ると言われるが、これも一種の対人行動スキルとして機能しているわけで、特性を浮かび上がらせよう、というのが趣旨。下敷きになっている調査は、数日後に海外出張を控えているのにパスポートを紛失、窓口で再発行を頼む時にどういう態度で臨むか、というもの。たたき台となるやり取りは、依頼に行った男性が「紛失は自分の不注意」であると平謝りしてから、どうしても必要だからお願いしたい、と頼む場面。これに対して日本人と在日外国人の感想は「日本ではよく行われること」なのだそうだ。まるで外国ではよく行われていないような含みを感じる表現ではないか。

自分なら、と想像してみると、多分このシナリオ通りに言うだろう。悪いのは自分ですが、とにかくもう出張の準備はしたしどうしてもパスポートは必要なんです、お願いします!って。で、もしタイでタイ語だったらと想像すると、なんか違うような気がする。いきなり謝ることはしないな、多分。「パスポートが見当たらないんですが再発行してもらえますか」が切り出しの文句だな、多分。その後はひたすら、必要なんです、を訴えるな、多分。この間、タイの高校生が「日本人ってすぐに『すみません』って言うよね。私も癖になっちゃってタイでホテルの予約する時に『すみません、空き部屋ありますか(原語はタイ語)』って聞いたけど、なんかヘン、正しくない」と言っていた。しかしこの場合の「すみません」はつまり呼びかけの言葉なんだから、文字通りに訳してタイ語の謝罪用語句を使ったらおかしくなるだけなんで、表面的な解釈の違いにすぎないといえばいえそう。でもこの小論文の方は、もっともっと奥深い展開になっていて、言語行動の醍醐味を感じさせてもらった。言葉はホント、文化である。
by kienlen | 2008-01-17 19:12 | 言葉 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


by kienlen