カテゴリ:読み物類( 703 )

あの米原万里が…

出たり入ったりしながらも全体としては朝から晩まで外にいた日。帰宅してメールをチェックしたら友人からの「米原万里が死んだ。56歳という私達とそう違わない年齢。もっと意見を言って欲しかったのに元気がなくなる」という文面のがあった。驚いてネットのニュースをチェックしたがなかなか見つからず、間違いであることを願って電話したが、確認しただけだった。この友人とは昨年、米原万里の講演を聴きに行ったし、お互い彼女のエッセイが好きなので借りたり貸したりしていた。電話でどちらともなく「世にはびこっている問題の人々じゃなくて、なんで米原万里なの」と言い合った。あんなにユーモアと皮肉にあふれて核心をつくエッセイストが1人減ってしまうとは、実に残念。自覚もなく不条理劇を演じる人々に「それ、ちょっと違わない?」と舞台の裾から冷静に言ってくれる貴重な声がまたひとつ消えたような感じがする。

エッセイというと、日常の何気ない一場面を綴るというイメージがなぜだか浮かんできて(これは私の思い込み)、そういうのは興味がないので普段はほとんど読まないが、米原万里は別格だ。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』で、私は自分の知らないことをいろいろ学ぶことができたし、何より、途中でやめられなくなる面白さと、それから、このひねったタイトルが象徴するような重層性が頭の芯のところを刺激してくれる。ギブスの上から掻いていたのを、叩き割ってから掻いたような快感を得る。私は彼女のエッセイをお風呂に常備している。お湯に浸かって読むには、濡れて本がいたんでも惜しくない文庫で、章ごとの独立性があって、難解でなく、深く味わう文学のようなものでもなく、あまり熱くなるものでもなく、絶望的になるものでもなく、となると雑誌を除いてはエッセイなので、イコール米原万里。今は『ロシアは今日も荒れ模様』があるが、これは笑いが止まらない。続きを読みたくて風呂から持ち出すこともある。昨年の講演もとてもいいものだった。書いたものがいいから実物がいいとは限らない中で、貴重な人だった。
by kienlen | 2006-05-29 21:22 | 読み物類 | Comments(0)

読みかけの本ばっかり

本日の仕事現場までは往復約5時間の運転。思いがけず早く終了したため帰路は遠回りして新緑のまぶしい山道を来る。途中の道の駅でウドの葉を買う。手打ちうどんでウドのてんぷらを食べたいと思った。でも、帰り着いた時には疲労感で体が重たい。昨夜の睡眠不足もあるけど、歳のせいだろうか。集中力のいる仕事だったのでそれも関係するかも。手打ちうどんに取り掛かる元気がなくソファに横たわった。横になることと本はセットだが、今読みかけのは雑誌を除いて主には新書で、斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』と仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠-アイロニカルな批判宣言』。どっちも著者が好きで買ったもの。どっちも疲労で倒れそうな状態とマッチしないので新しい新書を開く。すごく話題になっているらしいので買ってみたもので梅田望夫『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』。判断基準の第一が直感という自分は、最初のページで引きつけられた。けど、数ページ読んで朦朧としてきたので今日は諦めるが、他を置いてまずはこれを読むことにしよう。

話題の本といえば『国家の品格』がまだ売れているようだし、雑誌でもよく取り上げられているが、自分は読んでない。不満ばかり言うのは不本意なので買いたくはない。友達の誰かが買ったら借りようと思っているが、なぜか誰も買わない。皆が同じことを企んでいるような気もする。この間読み終えたのは、橋本治『乱世を生きる-市場原理は嘘かもしれない』というもの。橋本治を知ったのは『桃尻娘』というよりは編み物から。昔、編み物をしながら読書する姿を雑誌で見て真似たものだ。編み込みや模様編みは無理でもメリヤス編みならできることが分かった。それでこの本。同じ集英社新書の『上司は思いつきでものを言う』が面白かったので読もうと思った。つまりは、戦国時代の乱世に似ている現代を、自分のペースで淡々と生きることの勧め、などという単純でおこがましい処世訓であるはずはないが、自分なりに共感できるところは多々あり。驚いたのは、パソコンを使わず手書きしているというところ。中野翠も新聞にそう書いていた。信じがたいけど嘘をつく理由もないだろうし。そういうことを考えながら『ウェブ進化論』にかかることにする。
by kienlen | 2006-05-25 20:20 | 読み物類 | Comments(0)
岸本葉子『がんから始まる』を読んだ。たまに雑誌のエッセイで見るだけで特に好きというわけではないが、軽く読めるものをと思って買った文庫本。40歳でがんと診断されるところから入院、手術、退院後の生活を綴っている。エッセイストとして充実した日々を送る独身の1人暮らし女性。煙草も酒もやらない。玄米食まで実践していたので当人にとっては思いがけない病だった。生への肯定感と執着はとても強く、自分はここまで前向きになれるだろうかと思いながら読んだ。専門家としての医師との話し合い以外の決断は1人でする。身近な人としては父親が登場するが、拠り所とか相談相手という役割からはほど遠い。「再発リスクを抱えてどう生きる?」が帯の文句。生き方の書に入るのだろうが、がんという具体的な相手があるだけに自分との向き合い方が半端ではない。恋愛感情を抱くと人は詩人になるというが、がんを患っての表現というのは、澄み切った視界の中に潜む言葉を自分の中に強固に定着させているというような印象を受ける。

ここまで気合が入らない書としては、以前に読んだ頼藤和寛『わたし、ガンです。ある精神科医の耐病記』が良かった。これはテーマで選んだわけではなくて、著者が好きだからという理由。子供がまだ小さかった時に偶然図書館で借りた『ホンネの育児論』というのが、まず必ずつまらない育児書としては異質な面白さで笑えて手元に置きたくなって返却後に書店で注文した。耐病記を最後に著者が亡くなった今は入手不可能本となっているようだ。こちらも帯の文句は似ていて「かかったあとの人生」。人生論の一種として読める。ニヒルでユーモアたっぷり。今更恐れるものなしで、業界の事情にも言及。この期に及んで「リアリティだけがもつ露骨さ面白さを求める向きの期待だけは裏切らないだろうと思う」とのサービス精神発揮をまえがきで宣言している。確かに裏切らないが、そういう人にはもっと生きて書いていただきたかった。
by kienlen | 2006-05-18 20:23 | 読み物類 | Comments(1)
ちょっとした仕事の件で、知り合いの20代のグラフィック及びウエブデザイナーであり、農家の跡取り息子として週末は農業修行をしているKさんと打ち合わせした時、ニートの話になった。この流行語を何かのきっかけで出したのは彼の方である。ニートの定義をしながら精緻に話すなんて場では、もちろんなくて極めて雑駁。でもせっかくだから、世間知らずの自分への反省の意味もあって「周囲にニートの人っているの?」と尋ねると「仕事ない人も探しているから…いないですね。でも主婦はニートじゃないんですか?あと、花嫁修業とかいって家にいる女の人は?こういう人って結構多かったんでしょ」。私はニートの研究者じゃないのでこんな難問には答えられないが、しかし私達が世代を超えて一致した意見は「できるなら働きたくないって気持ち、誰にでもあるんじゃないか」ってことと「仕事のことになると男に厳しいよね」ってこと。ニート論議って男女平等な取り扱いなんだろうか。

働くって何だ、ということには興味があるので初期のニート関連の本は少しは読んだことがあるが、まだレッテルを貼ってみました段階でこなれていない感じがしていた。もし自分が該当年齢層だったら「うっとうしいな」と感じそうだ。読んでないので想像だが『ニートって言うな!』という本が出るのも然り。でも実はしばらく前に面白いと思うのを見つけた。雑誌『大航海』のニート特集。好きな仲正昌樹が書いていたので買ってみただけだったが、発見がいろいろあった。中でも小倉紀蔵「全能感・無能感・分能感でニートを解く」という一文。自分は何でもできる、という全能感から、自分は全体の中の一部に過ぎない、という分能感への移行=大人になる、という成長モデルに、特に電子メディアの影響から著しい変化が起きていると著者はみていて、ここを出発点にニートを含めて分析しているもの。特集全体が、労働問題だけで捉えるなという視点のようだが、小倉さんのこれもその一環に位置するようだ。自分のようなものから見ると全能感なんて一体どうやって養われるんだ、と思ってしまうが、それじゃあコイズミ現象にしろネット空間にしろ、世の中が見えないのだということが、これを読んで少し分かった。
by kienlen | 2006-05-16 12:39 | 読み物類 | Comments(3)
遅めのお昼を食べに夫の店に行ったら常連客のOさんがカウンターでビールを飲んでいた。暇だし自転車なので障害になるものはなく一緒に飲む。同年代。ラーメン屋とかスーパーとか雀荘とか、職を転々としている。定職がないという点、親が公務員だったから年金で生活ができる点は私も同じた。「俺らの時代なんか、年金だって崩壊しているだろうしさ」と、将来に希望を持てない点も同じ。配偶者ビザの取得待ちのタイ人女性が、やはりビールを飲みながら、フィルムを爪でひっかいたかのような映像のタイのレンタルビデオを見て笑っている。とても笑う気分じゃない。暗くて古びたタイ料理の店で昼間から飲んでいると、なんだか落ちこぼれの気分になる。酔って帰宅してソファでウトウトする。確か今日の起床時刻はお昼前頃なので、起きてからさほど時間はたってないのに。

子供が帰宅して目覚めて新聞を読んでいたら小熊英二への聞き書きが記事になっていた。ナショナリズムについて。この人の著書は好きなので何冊か読んでいる。それで、読んだら期待はずれではなかった。日本の場合はナチズムを生んだドイツと違って、企業など中間組織への帰属意識があったからナショナリズムの質が違っていたが、雇用が流動化したり商工会等の中間組織が力を失い個に分解されている現代は、ナショナリズムの質が変容している、というような指摘が含まれていたと思う。核になる思想があるわけではなくても、思想を共有しているわけでなくても、拠り所として保守的な集まりに参加する、ということ。実際、私自身、どこにも所属できない孤独の中にいると、この考察には説得力を感じる。さらに家族の求心力が落ちていることは、ウチのような家庭では一種の典型だろうと思う。放り出されて漂う個が、どういう吸引力に引かれるのか。またOさんと飲む時はこの件について尋ねてみよう。
by kienlen | 2006-05-11 22:15 | 読み物類 | Comments(0)
突然の仕事の依頼で往復数時間を要する市へ行く。実際の仕事時間は僅かで待ち時間がほとんどなのは経験上分かっているので、小旅行にも使えるボストンバックに時間つぶし用品を詰める。といっても新聞と本だけ。その時どういう求活字気分になるか分からないので、単行本と新書と雑誌を持参。重たいが我慢。外出準備OKで玄関のドアを開けたら『世界』が郵便受けに届いていたので封筒に入ったままついでに持参。電車の中で新聞を読み、仕事先で結局『世界』を読み始めたら、他に持参したのがただの重たい荷物になってしまった。何時間も待ったので割と進んだ。どれも読み応えはあるが、今月から始まった短期集中連載が特に面白かった。このコーナーの前回は佐藤優のでやはり面白かった。佐藤優は2冊読んで、先日はこの佐藤+宮崎学の『国家の崩壊』というのを書店で見つけてしまい、この2人のを諦めるわけにいかずに購入。もちろん未読。この間、知り合いにばったり会って、そういえば彼はロシアに最近まで赴任していたことを思い出して「佐藤優が好きなんですが」と言ったら「ああ、あっちにいる時に会ったよ。ヘンな人好きなんだ」と言われた。著作がであって、面識があるわけでもない著者を好きになりようがない、ということまで説明する時間はなかった。

さて、その短期集中連載のタイトルは「テレビ国家-権力のメディア的変容について」で、著者は私の知らない人。石田英敬という東大の先生。まず提起されているのは、政治の成立条件がメディアとの関わりで大きく変化している、という問題意識。これは私達一般庶民が多く感じていることだと思うし、あちこちで論じられているようだが、私などが目につく範囲でストンと胸に落ちるものに出会えずにいた。テレビ国家について「暫定的な内包的定義」としての説明は「テレビを中心としてメディアが編成された現代のコミュニケーション社会において、近代民主主義の政治的代表制をバイパスするかたちで、メディアを通して世論の支持をとりつけ、権力を正当化することを政治過程に組み込んだ政治権力による統治の形態」。乱暴に言うと、これまで官僚の作文によってなされていた政策決定が、政治家のパフォーマンスに移行する、ということだ。論理や法律よりも感情やプレゼンテーション。「そこから生ずるのは、立法主義や立憲主義の原則をないがしろにする傾向」とある。今月が初回。次号からの展開が楽しみだが、タイ語で言うところのサヌック(心地よい楽しさ)ではなくて、超拡大解釈のお楽しみ。
by kienlen | 2006-05-10 22:45 | 読み物類 | Comments(0)
ロバート・ベアの『CIAは何をしていた?』を読み終えた。映画『シリアナ』を観る前に読んでおくべきだった。そうしたらもう少しは理解を深めることができたかもしれない。とはいえ、この本も内容把握からはほど遠い。知らない国名、地域名、都市名頻出、人名ときたら、最後に9pに及ぶ人名索引があるくらいで、もともと記憶力が良くないこともあってお手上げ。それでもなお面白くて、結構な長編だが飽きずに読めた。フォーサイスとかジョン・ル・カレとか、若い時はスパイ物が好きだったし、今もその傾向はある。単に興味だけで本が読めるならこの類が一番多くなるかもしれない。この本は、76年にCIAに入局して97年に辞職するまで勤務した著者が、その間の体験を子細に綴ったノンフィクションで、単純化すると、中東を中心とする赴任地での戦争を含む体験を冒険物語風に描きつつ、CIAの方針転換への危機感を募らせ、本部に戻ってから目の当たりにした、ワシントンに流れ込むオイルマネー、隅々にまではびこる事なかれ主義への最終手段=告発、の書。

CIAの活動全体についての知識がないし、全体的に見てこの本に書かれていることがどういう位置づけになるのかは分からないにしても、私は、この著者のある種の正義感みたいなものは好きだ。結びの章では、9・11当日に触れながら「私は権力者の堕落ぶりを思うと、激しい怒りをおぼえずにはいられない。われわれはそれだけの権力を付与した人々に、もっと多くを期待する権利を有しているのだ」と述べている。もっともだと思う。しかし、最後まで解せない点は、アメリカを狙うテロリストはただただ絶対悪で極悪非情で何の理屈も動機もなしにテロ行為を行っているとしか読み取れなかったこと。それが事実なのだろうか。アメリカが狙われる理由が何かあるんじゃないかと懐疑的になるのは、CIAの仕事の範疇ではないのだろうな。それにしても、ここまで自分の職務と自己を一体化できるものなのだろうか。本書を元にしたという『シリアナ』では、自爆テロリストとしてリクルートされる青年を、社会的背景から描いていて、それは説得力あるものだったが、あれは映画化にあたっての脚色だったのだろうか。アメリカのリベラルが結集したということだし。それを思うと、この本は相当に暴力的な1冊に思える。
by kienlen | 2006-05-08 23:33 | 読み物類 | Comments(0)
家出をしたい気分だったが、単にノロノロで遅くなっていたがために今日中に仕上げないとならない仕事があって諦める。これってツイているのかツイてないのか。ふてくされて友人とランチをし、駅前に出来た新しいカフェで建築士Uとブレインストーミング的に有機栽培麦ビール。それから付近の大型書店へ行った。暖かくて自転車で走るのが気持ちよく、朝からのクサクサした気分が少しは晴れた。目当ては『あたり前の家がなぜつくれないのか?』という本。Uが、こういう本を作りたい、みたいな事を言い出したので参考のためだが、なかなかいい本だと思った。他は予定がなかったのについ何冊か購入。誰かが引いた線や書き込みが残っている古本『チベットのモーツアルト』雑誌で『クーリエ・ジャポン』高くて迷ったけど今日的テーマが含まれていそうだし、それに関心分野でもあるので『コミュニティ-グローバル化と社会理論の変容-』。それと友人達が作っている地元発行の『たぁくらたぁ』という雑誌。

メディアがどんどん増えている。特にフリーペーパー。でも、内容はほとんど似たようなタウン情報系。で、どこにも同じような店や情報が掲載されている。たかがこれだけの規模の街では無理もない。夫のタイ料理店にもいろいろと取材が来てくれるのは大変ありがたいが、ネタが何重にも重なっていることの証でもある。こういう情報に興味の薄い自分にとっては食指が動かない、という中、たぁくらたぁは毎号ちゃんと読んでいる。座右の銘とは言わないが、フェミニズム運動の気付き「個人的なことは政治的なこと」という視点が大切だと思っている自分にとって、生活の現場からという立ち位置が違和感なし。固有の生活の現場からの発信にささいな共感を覚える時が、エステやアロマセラピーなどの癒しを欲しない自分にとっての癒しになっている。
by kienlen | 2006-04-30 21:05 | 読み物類 | Comments(0)

友達に返却した本の記録

少し前から頼まれていた、某企業の会社案内のためのコピー書きを朝からやっていた。朝食を取るのが面倒でコーヒーだけで書いていて、お昼近く、いよいよ空腹になった頃に友人から連絡があった。貸していた本を取りに行っていいか、ということ。コピー書きの方のメドもついたので問題ない。借りていたのは大澤真幸の『帝国のナショナリズム』と、香山リカの『テレビの罠』の2冊。これまでは友人に貸すことの方が多かったが、経済状態が悪化して、書店でカゴに入れるまでのステップが増えているので、機会があればお借りすることにした。それで記録をしておこうと思って、他人の本に線は引けないから付箋を貼って準備していたが、記録する前に返却してしまった。というのは言い訳で、本の感想文はとても難しくて自信がない。修行が足りない。

大澤真幸はこれまでも挑戦したが、東浩紀との対談『自由を考える』以外はちゃんと読めたためしがない。でも『帝国…』は読めた。面白かった。それで今まで読めなかった理由が分かった。自分のレベルには難解であるという覚悟なしに軽い気持ちで字面を追おうとしていたからで、覚悟するべきなのだ。アメリカ滞在中に、アクチュアルな出来事について論じたエッセイが中心だが、最後に確か、アメリカの「帝国」と「ナショナリズム」の関係を書き下ろしていたはずで、これは特に興味深かった。氷山の一角を事細かく論じるものは、テーマによっては好きだが、海面上だけとか、海面下だけに焦点を当てたものは苦手だ。この本は水面下と上を常に目配りしながら行き来しながら、全体を見通す地点を指南してくれる感じで、その移動のリズム感みたいなものが心地よかった。香山リカは結構読んでいるが、これはその中では最も残念だった1冊。独断することを控えたのか何なのか、あちこちからの引用で、その分析も斬新さを感じず前半は斜め読み。後半は前半より面白くて少しほっとした。リカさん、がんばって欲しいから。昨夜から読み始めたのはロバート・ベア『CIAは何をしていた?』という映画『シリアナ』のネタ本。検閲の結果の伏字部分を墨で黒くしてある。飲みながら気楽に読めるかと思ったがそうでもなさそうだ。
by kienlen | 2006-04-26 20:56 | 読み物類 | Comments(0)
バンコクから来た時、息子は4歳だった。帰国直後に、この息子を連れて川辺に行った。ぬかるんだ轍で彼がバランスを失って転んだ時、ラオスとカンボジアに接する県の農村出身の夫がまず発したのが「バンコクみたいな都会にいたから転ぶんだ」。それは私が瞬間的に感じたことと見事に同じだった。これは、あらゆる場所が都市化することへの生理的な嫌悪感をもちつつも、抵抗や拒否するどころかそれを享受する自分への、さらなる嫌悪感が混じった感情が、息子を責めるわけではないのに、つい表出してしまったということだ。私の場合の出発点は、生まれ育った環境である。遊び場といえば裏山か川。小さな集落で子供も少なく、よく1人で山の中に入って行ったものだった。木の実を拾って食べ、古木の根が作った穴に潜んだ。小学校には自分で拾ったスギ枝の薪をストーブ用に、親が作った野菜を給食用に持参。半身雪に埋もれて動けなくなり、幼いながらも観念しかけたこともある。その時、心配して迎えに来たのは親ではなくて祖母だった。

中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』を読んだ。友人が、読み終えたからと貸してくれたもの。網野さんの本は初心者用が本棚にあるが多分未読。中沢新一も同じ友人から借りたものを読んだことがある程度。歴史学にも宗教学にも暗い浅才で、2人に関する知識もない。それなのになんだか感動でところどころ泣きながら一気に読んだ。息子の転倒の例を出すまでもなく、技術の発達がじょじょに人の身体機能を失わせていることは実感しているが、思考だって野生を失うのだ。それを突く歴史観が生まれた様子が、とっても分かりやすく描かれているし、著者の情熱がゆらゆらと立ち上ってくるのを感じる。こんな豊饒感を寝転がっていただいている自分が情けない。いくらなんでも基本図書で、読まねば、と思いつつ今に至っている『野生の思考』をこれを機に読むことにしよう。
by kienlen | 2006-04-25 14:21 | 読み物類 | Comments(3)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


by kienlen
カレンダー