「水になった村」ギリギリ観れた

今の自分にとって、数えるほどもない貴重この上ない定期の仕事の相手先から催促のメールが入っていたのに気付いたのが昨夜。呑気に温泉に入って、ビール飲んでいる場合じゃなかったと思わなければいけないのか、と思いつつも「明日やるつもりでした」と返信しておく。出前の催促に「今出ました」と答えるのと同じ。そして今日がその当日である。朝一番で人に会う約束があったので9時に現場の喫茶店でモーニングセットを食べていたら、偶然、知り合いのSさんが入って来た。そうだ、彼は「水になった村」というドキュメンタリー上映の仕掛け人で、私としてはこれは絶対観ようと決めていたものだ。という意識の流れから「あれ観に行くから」と言うと「だって今日が最終日だぜ」と言われた。そうだった。1週間延長になったって聞いて安心していたら、時の経つのは早い。今日は朝の打ち合わせを済ませたらすぐに帰って仕事に取り掛かる予定だった。どうしよう。映画はその時限り。仕事の時間は夜まである。迷っていられない。Sさんが送迎するというので乗せてもらって観ることにする。これもご縁。結果的には、Sさんに感謝である。すごくいいドキュメンタリーで感動した。日本最大と言われる岐阜県の徳山ダムで水没した村の村民だった人のダム建設の前後を撮ったもの。装飾しないミニマムな生は美しい。こういう作品こそ「美しい日本」の象徴にふさわしい作品として政府広報に使うべきである。

観る前は、村全体の様子を追ったものなのかと想像していたのだが、そうではなくて、ごく一部の人に深く関わって、そこから普遍性が浮かび上がる、という方法。静かな画面から強烈に伝わってくるのは、生きるとは何かってこと。それから人間の生と近代との関係はいかなるものであるか、ということ。食べ物は山と川で調達する。塩があれば保存食も大丈夫。五右衛門風呂に入りながら「本当に幸せ」と言う老女。こういう生活は都市生活者からしたらどうなんだろうか。つくずく自分の生育環境を振り返ってしまったのだが、実家では今も薪のお風呂だし、私が子供の頃はカマドだったし、自給自足に近かった。今でも「山に行けば何か食べ物がある」という思いは抜けない。山道で落ち葉を踏む感触とか草の匂いに五感がピンと立つ。それは今の時代にどうなんだろうか。そして人間にとって、自然にとって。そして、それが全部沈んだわけだ。実りをもたらす木も川も畑も家も、それらから成る生活も。巨大なダムのために。引換えに「空から降ってきた」と老女が表現したお金を得るが、それは使えばおしまい。何も残らない。現実と虚実がいつの間にか入れ替わっていく感覚で生きている人はきっと多いのだと信じたい。
by kienlen | 2007-11-09 15:44 | 映画類 | Comments(0)

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