基礎からガラガラ崩れている感覚

朝方玄関のチャイムが鳴ったので出たら男の子が1人立っていた。息子の中学時代の友人だった。野球をやっていた子だ。丸刈り姿。息子に会いたいというから「今は友達に会えない」と説明したのだが、平日のこんな時刻になんでここにいるのか。「学校は?」と尋ねると「いろいろあって辞めました」と言う。「じゃあ、働くの?」と聞くと「別の高校受けます」とのこと。しばらくしたら会えるから、と帰ってもらう。これを謹慎中の息子に報告する。その子は野球推薦で入った高校で先輩とうまくいかなかった、という噂とか。「そういえば△君も高校やめたって話しだよ」と言う。なんだか世の中が根っこのところから変化しているように感じる。今回の息子の一件でつくずく感じたことは、家庭が受け皿になれる場合はなんとかなるとしても、すべてがそうもいくまい、ということである。で、仮に家庭に受け止める力がない場合、子供はどうなるのだろう。このあたりの中間的役割を果たす機関があまりにない。

かなり前だが、ヨーロッパの国の男性が妻である日本人女性と、子供を巡って家裁で調停している時に、その彼が「裁判所の決定が守られない。公の機関と家族の間に立つ機関がないからだ。子供が安全に親に会えるような場所が必要だ」と言っていたことを思い出して重なった。そもそも家族の人数だって減っているんだし、何か事が起きた時に受け止めるだけの層が薄くなっているのだ。先日も、友人が「結婚しないできた人達が親の介護をする時期になっていて、その人達が介護休暇を取るから人手不足で大変だ」と話していた。他人事じゃないよ、と40代も半ばを過ぎたその友人、独身。何かが機能不全に陥ったら何かが機能を代替しないとならない。その事を真剣に考えていかないと大変なことになるような気がする。
by kienlen | 2007-09-28 23:42 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

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