『無思想の発見』と一人称

旅行中に読むつもりで買っておいた本で、途中までしか読んでなかった養老孟司『無思想の発見』を2-3日前に読み終えた。といっても、ほとんど酔っ払って眠る前に目を通したって感じだし、それ以上のコンディションで読みたいとも思わずだったから、思いついたトピックのみ。冒頭に気になる部分があった。「自分を表現する日本語は数多い」で始まり例が挙がっている。で、次なのだが「英語にかぎらずたいていの言語では、自分を表現する言葉は一つで済む」と続く。これが本当だとしたら、タイ語も日本語と一緒に特種な部類に入ることになる。確かに英語やその親戚の言語はそうなんだろうし、ちょっとかじったところでは中国語もそうだった。韓国語はどうなんだろうか。ちょっと知りたい。で、タイ語だが、これはかなりやっかいな問題。タイ人同士がどう話しているかに見習って自分でそれを使えるかというと、これまた面倒なのだ。というのは、相手との関係性によって変化するから、相手との関係を自分なりに特定できないと困る。で、それをするだけの適応力を私は今のところ持ち合わせていない気が自分でする。

その点日本語の方が、とりあえず「私」を使っておけばいいから楽じゃないかと思う。タイ語にも「私」に相当する言葉はあって、大体私はこれを使っているが、使いつつ違和感を感じる。というのは、日常生活においてタイ人達はほとんど使わないし、カジュアルな会話でこれを言うと、なんか気取った感じになってしまう。友達同士で「ワタクシはですね」と言うような。それから次の手は自分の名前を使うもの。日本でも子供が自分を「○○ねえ」と言うアレ。これは便利で違和感もないが、年齢を経ると「いいのか、今の自分の年齢でこれで…」と思ってしまう。タイ人の関係性というのは年齢とか社会的地位とかジェンダーから判断されるが、外国人って年齢も分かりにくいし、社会的地位もタイ人同士のが通用するかも疑問。で、ここんとこ利用しているのは、自分のことなのに「我々」みたいな言い方。よく英語で、ちゃんと自分の意見として言うところを「we」にして先生から注意された、というような話を聞くが、タイ語だとそんな指摘はされずにすむ。養老先生の本は、その後、自分と相手が入れ替わる現象を示して「こんな言語が他にあるかというのはほとんど愚問であろう」と書いているけど、これもタイ語では起こる、と思うのだが、私の誤解でしょうか。いや、多分、先生がタイ語を知ったら、ここまで断定しないようにも思う。これでその後の読み進め方が上の空になってしまったというのはある。
by kienlen | 2006-12-27 14:22 | 言葉 | Comments(0)

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