決断の基準のズレをどう調整するか

私たちの生活というのは毎日毎日、決断の連続であり、それが人生なのだろうが、人は一体何をその決断の基準にしているのだろう。特にここのところの一連の葬儀前後の人間模様を見ていて改めて思った。私自身は陰影にも奥行きにも乏しい単純な人間なので、決定基準もシンプルである。まずは自分がどうしたいか。次に状況的にそれが許されるか。次にその事で誰かに多大なる迷惑をかけるか。ただ何を迷惑と感じるかは他人には分からないので、なるべく自分では判断しないで尋ねてみる。ここまでOKだったら、方法を模索するだけだ。で、無理そうならやめるか時期を待つか、そのうち忘れるか。これら以外が決定要素となることは、多分あまりない、と思う。私にとっては親というのは、私の決断を相当にじゃまする存在であった。若い頃は悩んだり恨んだりしたが、さすがにそういうみっともないことはやめて「世間が…」とか「人並みに…」とか言われたら「世間って何、人並みって何、自分の考えは一人称で話すように、それから私の行為が具体的にあなたを困らせるなら教えて欲しい」と言うことにした。そしたら、相手は言葉を失う、そして諦める。

でも、私の親はもしや諦めが早いのかもしれない、と思う場面は多々ある。例えば今回、タイの両親が異国で死んだ息子の遺骨の一部を欲しいと伝えた時の、日本人妻の父親の反応は「結婚したいから条件があると言った。それは帰化すること。帰化するということは骨を埋めるということ…」等々、延々と話し出した。お墓は用意してあるとかナントカ。つまり何が言いたいのか不明。お骨を届けるのが嫌なら、理由を説明してそう言えばいいと思うし、とにかく彼が何に問題を感じているのかを明確にしていただかないと、当方何も理解できない、ということは前に進めない。ウウウと心的便秘状態になっていたら最後に「だから自分では決められない」と締めくくられた。じゃあ、誰が決めるのかについてのヒントはなし。だったら、ここまで長々話した目的は何だったのだろう、という感じ。でももしかしてこれが「世間様」を尊敬して生きている人の常識的反応なのかもしれない。この場面ではこう言うべき、ふるまうべき、という「べき基準」みたいなものがあって、それと自分の気持ちを常にすり合わせている、ということを相手も察して欲しいメッセージを送っているのだ。で、相手が察して同じルールでパフォーマンスしてくれればいいが、そうとも限らないってことを誰が引き受けるのか。自分の浅はかさを感じつつ、こうなったらどこまでも浅はかでいくしか道はないと思ったりする。
by kienlen | 2006-11-20 22:08 | その他雑感 | Comments(0)

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