含意が深い言葉と行動

長いこと中断していた日本語教師養成講座の提出テストを久々に1枚仕上げた。スピードを上げないと間に合わないから、順序を追ってやるのはやめて、自分にとって抵抗のない単元から進めることにする。それで再開1回目は「社会言語学」というテキストにした。なかなか面白いのだが、ただ読んでも身につかないことは我ながら泣く泣く理解できる。でも不思議なのは、それでも何かのひっかかりというものはある。ただし、たいていはテストだとか重要ポイントに当たらない点なのが実効的ではない。このテキストの場合「含意は文化によって違うが、日本語は含意が深い言葉といえる」というあたりにうなづいた。例には、よくある「暑いですね」を、窓を閉めきった教室で言った場合、単に暑いを伝えたいんじゃなくて、窓を開けて欲しいを含意している、ってのがあがっていた。ちなみに私が窓際にいて、この含意まで到達できるかというと、怪しい。というのも、多分いつか若い頃に私は含意の病を脱しなければと、確かに思った記憶がある。だって、そもそも人によって違うんだし、育った家庭環境なんかで大きく違う、それに捉われていると病気になる。

ラッキーな事に外国人といると、含意のある言葉をなるべく使わなくなる、というか言葉に深い含意を入れなくなる。相手にも「ストレートに言ってくれ」と執拗に言ってきた。ううむ、非文学的環境であるのは悲しい…。ただし、それで日本社会に適応しにくくなるということはありそうだ。ウチの場合、私はどうでもいいけど、子供が影響を受けるかもしれないと思うが、日本の学校教育を受けている限り隠れたカリキュラムに救われている(?)に違いないから格段心配はしていない。ところで、以前、言葉だけじゃなくて行動もなんだ、と恐れ入った経験をした。

引っ越し前に住んでいた家の隣は、70代の夫婦で夫はパーキンソン氏病、妻は糖尿病やら合併症やらで、まあ結構大変そうだった。我が家の、当時まだ小さな子供を見ると元気になるということで、体調がいいと写真を撮ったりして、塀もない小さな庭先でよく交流があった。そのうちに夫は亡くなりおばあさん1人になった。気がつくと時々、我が家の庭の雑草を抜いている。私は「ちょうどいい運動になっていいんだろうな、雑草取りが好きなんだ」と思って、我が家の雑草を抜くためにかがみ込む隣のおばあさんとフツウに、(自分は)立ち話をしていた。こんな事を何かの折に友人に話したら、彼女はびっくりして「それはねえ、アンタが雑草を取らないからイヤミでやってんのよお!」と言われて、びっくり仰天であった。こんな事で驚いていては日本人失格だろうか。その後、私達の後に移り住んだその家の住民は塀を作って、その隣家を遮断した。含意を取ることによってこうなる、なんてことはないと願うところだ。
by kienlen | 2006-09-02 11:08 | 言葉 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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