癒しとしてのナショナリズムという説

遅めのお昼を食べに夫の店に行ったら常連客のOさんがカウンターでビールを飲んでいた。暇だし自転車なので障害になるものはなく一緒に飲む。同年代。ラーメン屋とかスーパーとか雀荘とか、職を転々としている。定職がないという点、親が公務員だったから年金で生活ができる点は私も同じた。「俺らの時代なんか、年金だって崩壊しているだろうしさ」と、将来に希望を持てない点も同じ。配偶者ビザの取得待ちのタイ人女性が、やはりビールを飲みながら、フィルムを爪でひっかいたかのような映像のタイのレンタルビデオを見て笑っている。とても笑う気分じゃない。暗くて古びたタイ料理の店で昼間から飲んでいると、なんだか落ちこぼれの気分になる。酔って帰宅してソファでウトウトする。確か今日の起床時刻はお昼前頃なので、起きてからさほど時間はたってないのに。

子供が帰宅して目覚めて新聞を読んでいたら小熊英二への聞き書きが記事になっていた。ナショナリズムについて。この人の著書は好きなので何冊か読んでいる。それで、読んだら期待はずれではなかった。日本の場合はナチズムを生んだドイツと違って、企業など中間組織への帰属意識があったからナショナリズムの質が違っていたが、雇用が流動化したり商工会等の中間組織が力を失い個に分解されている現代は、ナショナリズムの質が変容している、というような指摘が含まれていたと思う。核になる思想があるわけではなくても、思想を共有しているわけでなくても、拠り所として保守的な集まりに参加する、ということ。実際、私自身、どこにも所属できない孤独の中にいると、この考察には説得力を感じる。さらに家族の求心力が落ちていることは、ウチのような家庭では一種の典型だろうと思う。放り出されて漂う個が、どういう吸引力に引かれるのか。またOさんと飲む時はこの件について尋ねてみよう。
by kienlen | 2006-05-11 22:15 | 読み物類 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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