自分の中の恩師の死

昨日、恩師と呼ぶのがふさわしい方のお別れの会に行った。同じく参列の友人の車に乗せてもらって少しの遠出。心筋梗塞だったか、とにかく突然倒れて心配停止のままドクターヘリで大学病院に運ばれて蘇生措置を講じたがだめだったという経過説明があった。ずっとご無沙汰だったので日常生活の中に具体的にその先生がいたわけではないし、何か具体的にお世話になっていたというのでもないし、とにかく現時点で関わりがあったわけではないのだが、ズシリと響いているなという感じが拭えない。それが何なのだろうかと気になっていて、こういうのが存在感というものなのかと思った。考えなり行動なりは多分人それぞれの基準みたいなものに従っているのだろうが、何を基準にするかは人によっても違うに違いなく、で、自分としては、どこかに、これをやってこの存在に対して恥ずかしくないようにというような指針が漠然とある。

この存在というのは、分野によって具体的な人の場合もあるし、神様のような存在を想定してのこともあるが。で、そういう意味で、あの先生ならどう評価してくれるだろうか、みたいな想定をしたくなる先生だったわけだ。よって気持ちの中にはいつもいた先生なのだ。そうであれば具体的に付き合いをお願いしたり、伝えたりすればいいのに、自分はそういうことをいつも心の中で思っていながら表現しないから外から見たら思っていないというのと同じことになるのだろう。これは自信のなさゆえだろうか。後悔めいた気持ちがあるとすればそれかな。でも、かといってそういうことを伝えたからって何がどうなるってこともないような気もする。そうしてどんどん大切な人を失っていくような気もする。つまり、大切な人だったということを伝えないままに。この希薄さがたまらない。これが落ち込む原因かもしれない。でもだからどうするという解決は浮かばない。今日の午前中はほぼボランティア仕事して、昼時に帰宅するが、だるくてソファにごろり。起き上がってパン食べてまたごろり。午後に夫が帰宅して「自転車がでてきた」という。盗まれていたものを警察が自宅まで届けてくれた!すごいな。夫に代わって受領のサインをした。
by kienlen | 2013-06-10 22:07 | 出来事 | Comments(0)

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