いなくなって重くなる存在

身近な存在の死というのが、これほど色々なことを考えさせてくれるきっかけになるとは、母の件があるまで知らなかった。昨夜、父の家に泊まりに行った。娘を同伴した方がふたつの家を見るよりも楽なので連れて行く。といっても子供であれ強制が苦手なので希望を聞いての上。行きたがったから。その前も泊まったから連続の2日目ということになる。学校へ迎えに行き、そのまま実家へ。夕方到着すると父は風呂に入っていた。実家の風呂は薪で炊く方式。ふと、残った炭をどうしているんだろうと思った。残っているなら欲しい。バーベキュー用に使える。といっても子供も大きくなり、そういう楽しみもなくなってきていることも同時に感じざるを得ない。母もこうして役割という視点での存在感の薄くなる自分を感じていたに違いない。実は存在というのは役割ではないのだろうが、役割を超えた存在感というのは簡単ではないのかもしれない。それは何なんだろうか。

父の晩酌に付き合ってビールの大瓶を飲んでいたら「強いな」と言われた。自分の交友関係では底なしみたいな人が多いのでビール1本で強いと言われたのは初めて。その後はすることがない。父がバナナを食べろというから1本むいた。ひじょうにまずい。「生で食べるのはまずいから風呂のオキで焼くと美味しいよ」と言うと、明日やってみようということになった。それで「焚口の横に七輪置いて魚でも肉でも焼けば美味しいしガスを使う手間も省けていいじゃない」と言うと「俺はやっみたことあるけど、ばあちゃんに『みっともない』って言われてできなかった」というのである。母は見栄っ張りだったから、という話しを友人にすると「それだったら家の母も言いそう」というのである。見栄っ張りじゃないのに。で、思ったこと。そういう時代だったのだ。煮炊きは薪からガスへ、何もかも新しくなる時代、古い習慣や文化に価値はないというメッセージが普及し始めたテレビを通じて発せられる。親の世代はその真っ只中にいたわけだ。その渦中に母になるということはどういうことか。もっと古い世代だったらそうはいっても自分の価値観が形成されているかもしれないが、そうでもなかった場合。男は社会に自分の位置を見出すだろうが、女にとってはそれもできない時代。状況的に不幸じゃないと言ったって、根本のところで辛くても不思議じゃないよなと思った。
by kienlen | 2012-04-13 17:21 | 家族と子供の話題 | Comments(0)

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