『「気づきの瞑想」を生きる-タイで出家した日本人僧の物語』

知っている人が書いた本を何かの拍子にネット上で偶然発見。即、アマゾンで注文した。それがこれ。読むのに少し難儀するかな、他のもっと簡単な本の方が優先になってしまうかなと思ったけど、大変すっきりと読むことができたし、とてもいい本だった。著者はプラユキ・ナラテボー。夫が出家から戻った直後でもあるので余計に感銘を受けた。仏教はいいなあ、という感銘。仏教の本は若い頃から折に触れて少しは読んてきた。昔、母が苦しそうにしているのを感じて「これ読めば」と言って仏教の本をやったことがある。多分まだ20歳そこそこの頃。タイトルは覚えていないがやったことをよく覚えていて、そして今も母は変わっていないことにも感動する。苦しくなければいいのだが、何か苦しそうに見えるのである。オープンさがない。なんでここで自己開示しないのかなという大きな不思議があり、結局それによって何も寄せ付けないのに、寄ってきて欲しそうなメッセージは伝えるのである。それはつまり他をも苦しくさせる。それから逃げたかった。逃げられる人はいいが、当人はそういう当人から逃げてないというのが感動だ。

今思い起こして、当時の自分がなぜ仏教の本を読んでいたのかは、思い出せるような出せないような。ただ単純に楽になるには、という発想だったようにも思う。自分の場合は結構シンプルで、苦しい、でもそれを外に訴えるだけの手持ちのネタがないというか、生育環境が外部に対して訴求力を持つほど過酷だったわけではないし、決定的な不幸に見舞われたわけではないし、そうなると、これって自分の問題だよな、と思うわけだが、でも何か言い訳が欲しい。それを母に転化しては相手も迷惑ってもんだろう。失礼しました。で、この本と何の関係があるかというと、今を観察することの重要性を説いている。納得である。タイで、お寺と僧侶、それと人々の関係が日本のそれと全然違うことにびっくりしたものだが、こういう本を読むと、こういうお坊さんが身近にいてくれたらどんなにいいだろうと思ってしまう。タイ人は、日本にあるタイのお寺によく行く人が結構いる。タイ人のいる所、お坊さんあり。著者ともこちらで知り合った。それから実家に訪ねたことがある。その時は、私の友人が会いたいというから同行したのだが、その友人は亡くなってしまった。あれからもう10年くらいになるのかあ。なんか、速い。
by kienlen | 2011-01-20 09:09 | 読み物類 | Comments(0)

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