東野圭吾『カッコウの卵は誰のもの』

息子が東京のアパート探しから昨夜戻った。いない間は少しはいいところもあるヤツだと思えるが、目の前に現れると腹が立つばかり。今後の負担でお先真っ暗、しかし自分も覚悟を決めるしかない、そもそも自分が許可したことだし、と悲壮な気持ちでいるのに傍若無人である。頭にくる元気もなく起きている元気もなく早々に寝ることにした。それで、友人から借りている2冊目を読むことにした。救いは本だけだ、本当にそうだ。その本だって自由に買えなくなるじゃないか、と思うとまた腹が立つ。というのはいけない母親像の典型であります。スキーが出だしなので、スキーをしない私にはとっつきにくくて『白夜行』を先に読んでいて、これもまた似たようなものだったら挫折かもと思いつつ。読後感は、なんというか、白夜に佇んでいるような感じというか、こう、すっきりしない。なんでかな。確かに面白いし最後まで飽きない。しかし、どうしても人物にリアリティを感じないのである。1冊目の殺人の門の時は、これもアリと思って読めたが、3冊目になると、ううむ、である。若い時ならそうは感じなかったかもしれない。親子関係や人間関係の多様さについて考えている時に、こういう親子像や人間関係像を受け入れることは困難。

なんて、感想は的外れなんだろうと思う。つまり私はこういう本の読者には向いてないのである。私は謎解きとかトリックにはあんまり興味がない。こういう本は全体の構成があって、それに見合う人物を設定しているのだと思う。ゲームの登場人物にキャラクターを与えるとこんな感じなのかな、って感じ。ゲームもやらないから、そもそも何も分かってなくて失礼な感想かもしれないが。で、キャラクターを与える時の視点がマクロだなって感じがする。全体を見渡してからこの人はこうでこう動いて、という役割分担なのである。だからそれぞれがひとりの人物としてのリアリティがなくてもいいのだ。そういうものを目指しているんじゃないのだろうから。そういうのが好きな人にはとっても面白いと思う。私はやはりセコイので小さなリアルが欲しい。ロマンチストなのかもしれないな。かといって感動物、みたいなのは苦手だし、我ながら面倒くさいな。東野圭吾が好きになれたら、当分読む本に困らないけど。若い時に、困った時の松本清張っていう安心感があったのと同じで。しかし、まあ、こういう時代のヒトそのものが平板になっているんだと思うと、こっちがリアルってことで、私がもう時代遅れってことなのだろう。東野圭吾の本を読んでいると、一体読書って何なんだろうという基本的な疑問に襲われる。自分にとって本って、多分ある意味の救いなのだが、私にとってのそのカテゴリーに入らないことは確かであるから、別のカテゴリーを用意しないとな。もういい加減そういう時期かもな、って気もする。
Commented by jun at 2010-03-03 08:00 x
的外れというより、前日のコメントで私も同じようなことを書こうと思っていました。でも、あまりにケチをつけるようで差し控えていましたので、書いていただいでスッキリです。清張さんなどとは比べるべくもないのも同感です。
でも確かに「今」を描いていることは確かなのでしょうが、少しライトな感覚で生や性が希薄なのでしょうか。作者の同世代の私もそうかもしれませんが。また、今は庶民文化も(求めれば)多様化・高度化しているので、私達が作家よりも面白い体験や思考をしていることも、小説をつまらなくしている要因とも思います。
娘の併願の私立は、何とか受かりました。ダメかと心配していたので、カミさんは泣いていました。大学のプレッシャーや倍率の比ではないとは思いますが。何せ初めてですので。
では。
Commented by kienlen at 2010-03-03 08:11
お嬢さん、おめでとうございます。大学は浪人という手があるけど高校の方がハラハラではないでしょうか。本命も合格だといいですね。3年間ってあっという間です。
by kienlen | 2010-03-02 11:51 | 読み物類 | Comments(2)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


by kienlen
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