移民についての講演で考えたこと

旅に出ていたわけでもないのに3日も休んだ。単に毎日酒でトリップしているだけのことだ。昨日も友人と「脳みそが毎日1mmずつ削られていく感じ」と話しながらますます削る行動に出ていた。飲酒会の前は遠方の勉強会に出てみた。外国由来人々の支援団体の主催するもので、発起人には知り合いが複数。で、その組織の代表である大学の先生が米国の移民教育の一端視察報告を少々と、日本の文科省の最新の方針についての解説をしてくれた。だいたい外国人政策こそ政府方針があるべき、というか、政府の方針なしに現場の対応が最もできにくいもののひとつがこれだと思うが、日本は相変わらずであるようだ、という確認はできた。それはそれで作戦と思えないことがなくもないが、国としての方針がなくて文科省が方針を出したところで、ないよりいいのかどうか知らないが、混乱は免れない。もっとも国の方針があったから混乱しないということはあり得ないけれども。それはともかく、先生の話の中で、またかあ、と思うくだりがあった。アイデンティティが揺らがないように母国の言葉、文化は失わないようにすべき、というような話である。すごくよく言われる話だ。これって言うのは簡単かもしれないが、どうやってやるんだい、と思うとすごく難しくないだろうか。私はこの言葉に傷付く、というほどのヤワではないけど、少なくとも結構悲しい気持ちにはなる。

なぜか。自分が実行できていないからだ、とも言える。ウチの子らはタイ生まれである。タイ国籍も持っている。父親はタイ人である。タイにいる時の第一言語はタイ語だった。今、タイ語は話せない。誰も教えていない。タイ文化も教えていない。と、誰かに話したらきっと「だってお母さんが日本人なんだから日本語が母語で日本文化でいいじゃない」と慰められるだろうか。あくまで「ちゃんと教えないと」と言われるだろうか。両方とも言われたことはある。ではもしタイにいたらどうだろう。タイにいて日本語も日本文化も知らないかったら「タイ生まれのタイ育ちだからいい」んだろうか。じゃあ、アメリカに移住していたらどうだ。子どもたちにとって何が母語で何が自分の文化なんだろうか。たぶんこういうことは専門家の中でも議論があることなんではないだろうか、想像だけだが。いずれにしろ自分が身をおいてない言葉とか文化は自然には身につかない。身についてないものにアイデンティティをおけと言われたら、そっちの方が苦しくないだろうか。確固たるアイデンティティなんてなくてもいいと言っては暴論なんだろうか。こんな暴論を吐けるのは自分が経験してないからとも言えるとなると、ますます分からない。親子共々知的能力が高くて、教える時間的、経済的余裕が移民のみんなにあるなんてことはないわけで、じゃあ、それを学校教育なり移住した国の責任でやれということになると、どういう移民政策を取るのかというのとモロにぶつかってくることになる。ま、そこまで論じるところまでにもいってないように感じる。
by kienlen | 2009-01-25 11:45 | 言葉 | Comments(0)

信州で読んだり書いたり、時には旅したり


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